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1992

青柳 恵

恵介

ら拾えってこった」と言ったことがある。 彼は勉強は中の上位の所にいたが、それよ

も絵や書道に才能の輝きを示した。先生が
絶賛をおしまないようなものを画いて、時々
皆を驚かした。「すごいじゃないか」と言う
と、「何事も一途ってことが大事だ」と顔を
翠めて照れた。本を読むのが何より嫌いで、
やがて学校の勉強から離れ、ギターに熱中し
た。ベンチャーズ、ビートルズ、ローリング
ストーンズの時代である。中学生のうちに、
ギブソンやフェンダーのアンブ を買って貰
い、一途に歌をうたっていた。彼は大変女に
もてた。

学校を卒業してから頻繁に会うことはなく
なったが、たまに電話があって一緒に酒を呑
むことがあった。「ぜえぶん会ってな い な」
と言うので、「相変らずだなあ、ぜんぶんじゃ
ないよ、ずいぶんだよ」と言うと、「本当か。
俺は今までぜえぶんと思ってたよ。やっぱり
おまえと会った甲斐があった。俺はそんなこ
とも知らないんだよ」というようなやりとり
になる。彼はカメラマンになっていた。私と
会う際には必ず何十枚かの自分の撮った写真
を持参して見せてくれた。私には写真のいい
悪Sは皆目わからないけれども、何十枚かに
一枚、尋常ならざる一枚が混っているように
思われる。「どれだ?」と聞くので「これだ」

った。「新規」などという言葉も祖母愛用の
漢語の一つだった。
「俺は情けねえ」などと友人が古風な男泣き
をするものだから、釣られて祖母の言葉が口
を衝いて出たのだろうと思う。

彼の祖母も江戸っ子で、彼はそのオバアチ
ャンに溺愛されて育った。言いおくれたが、
彼と私とは中学、高校の同級で、少年時代に
は互いの家に出かけあってよく遊んだ。彼の
家で飯時になると、近くの洋食屋のハンバー
グとかポークカツレツなどを取ってくれて、
下町風な接待にあずかった。彼は一面わがま
まで傍若無人なところがある一方、変に信心
深いところがあり、それはオバアチャンの影
響によるものと思われた。

二人で歩いていて、道端に野良猫がうずく
まっているのに出くわした際、彼はふいと横
を向き「見るなよ、捨て猫は一度見て、あわ
れな奴だと思って、通り過ぎると、それを
んで崇るかられ、見ちゃいけねえんだ。見た

た。

秋に久しぶりの電話があり、その声はめっ
きり年寄りくさい声で、私の印象から言えば
何かから脱け出たような感じの声であった。
約束した店で会っても、彼はほとんど何も喋
らなかった。「写真は?」と尋ねても反応が
ない。三十分程で「じゃ、またな」と立って
帰ってしまった。そして年の春れになって、
入院の報らせである。

その病院は中学生の頃に彼が入院をしたこ
とのある病院だった。学校の休み時間に彼は
突っ走り、校舎の玄関のガラスを腕で割り、
咄嗟に腕を引いたために、腕の肉を切り裂い
てしまった。先生に抱かれて、そのまま何週
間か、学校の近くのその病院に彼は入ったの
であった。私達友人も何度か学校の帰りに見
舞いに行ったその病院に、彼はかかりつけの
医者に紹介されて、偶然に入院した。昔は木
造のうす汚れた建物であったが、建て替えら
れて清潔な病院になっている。

彼と私との会話は、昔話になった。彼が先
生に抱かれて病院に向かった後、腸が木の枝
にカエルを刺したように、彼の腕の肉片がガ
ラスのギザギザに「ぶる さがって」い た こ
と、それを体育の先生が摘んで病院に走り、
その肉片をくっつける手術をしたこと、彼の
オバアチャンが急を聞きつけて手術室に入っ

た途端、そのありさまを見て卒倒してしまっ
たこと等々。
「まさかこの病院にまた入えるとはさ。あの
ときゃ、学校が終ると、ここまで鐘が鳴るの
が聞こえんのさ。そいで皆んなが来んのを待
ってたんだよ。ぜえぶん来るもんだから看護
婦がよ、こんな見舞いの多い患者ははじめて
だって......」と言った途端に彼は「情けね
え」と、片一方の手を点滴の旗の下に投げ出
し、もう一方の手で両目を覆い、腰をよじっ
て鳴咽したのである。

気が鎮まると、「一つ頼みがあるんだ」と
私の顔を見、今まで生涯に一冊も本を読んだ
ことがないが、何か一冊読んでみようと思う
ので見つくろって来てくれと言う。図鑑でな
くてもいいのかと問うと普通の本がいい と言

う。

私が病室を立ち去る時、彼は「二度あるこ
とは三度あるって言うからな」と私の背中に
声をかけた。彼は二度目に絶望を見ているの
であろうか、あるいは三度目に希望を托して
いるのであろうか。それと新規まきなおしと
いうことはどう関わるのだろうか。目下私は
一冊の本を選ぶことの難しさに当惑して S

る。

1992

井尻千男

のところ、深付き合いの日々は書けても、別 れの一瞬は書けていない。これは昔の恋人を 語るようなものだ。

そういうことは他人が乱暴に説明した方が SS のかもしれない。 『小林秀雄の流儀』第二章に興味深いエピソ 1ドがある。それは山本氏がパリのルーブル で、紀元前七世紀の「メシャの碑文」を探し 歩いているときに起った。 「不意に横から、だれかにジーッと見られて いるような気がした。そしてそちらを振りむ いたとき、私は思わず心の中で言った。『あ、 お前はここにいたのか』後で考えると『お 前』という言葉は少々変なのが、そのとき はごく自然に心の中に浮んでいた。その『お 前』は、濃い薄明の中から上半身が浮び出 て、こちらを向いている。口はほほえんでい るが、目は笑っていない。一方の目はまっす ぐ私にそそがれ、もう一方の目は私にそそが れながら、その視線をやや左手の方へ動かそ うとしている。その左手には十字架の杖があ り、右手をあげてそれを指さしている。それ は何か十字架へ人を誘って行くように見え る。男か女かわからぬ。人間か妖怪か明らか でない。私は、何もかも忘れてその前に立っ ていた。 それはレオナルド・ダ・ヴィンチ最後の

た。そして私にとっての小林秀雄とは、耐え
られぬほどの羨望の的であった。」

こうして出会い、創元社版の小林秀雄全集
を読む。
「この本は箱の出来が悪く、なかなか本が出
て来ない。私は箱のホチキスを全部はずして
本を取り出し、開いた箱は捨ててしまった。
何を読んだのか、その時点までの彼の作品は
全部読んだのだろう。徹底的に読み返し読み
返し、暗記するまで読んだはずだ。では今も
覚えているか。全部忘れた。否、忘れようと
努めた。それでいいのだろう。」

これが別れ方である。なぜ「忘れようと努
めた」のか。それを論理的に語ることは至難
のことだろう。その筋をたどろうとすれば、
他れた状態を復元せざるをえず、復元してみ
れば、こんどはなぜ別れたのかの説明がっか
なくなる。それは信ずることと似た一瞬の跳
躍だったに違いない。山本氏は、そのことを
表現しようとして一冊の本を書いたが、結局

といったのはなぜか、具体的に誰かを想い浮 ことのある山本氏は、小林と訣別せざるをえ
かべていたのか、それとも抽象的に、人間の なくなった。察するに、これはつらい別れ
根源的な苦悩を背負う人物というほどの意味 だ。そこから先は、ころばない ば進めない
だったのか、そこが疑問だった。だが、この 道だった。
一行を論したものを私は知らない。山本氏も 山本氏はクリスチャンといっても、日本独
また、そのことに触れずに先へ進んだ。 特の"無教会派"のキリスト者である。たし

小林のゴッホ体験」と山本氏の洗礼者 か氏の祖父が内村鑑三の同志か弟子だったは
ヨハネ体験」に、私はただならぬ象徴性を感ずである。各自が自分の胸の中に教会を持て
ずる。もし小林がゴッホやド トエフスキー というのだから、これは異端すれすれの過激
を語り続けていたら、山本氏は小林を「忘れ さである。
ようと努め」なかっただろう。信仰と懐疑の 山本氏は二、三年前に、氏の日本論の集大
劇をあれほど鮮やかに論した小林は、三代目 成ともいうべき『日本人とは何か』という上
のクリスチャンとして育った山本氏の同伴者 下二巻の本を書いた。
だった。「暗記するまで読んだはずだ」とは 私は当然、本居宣長がどのように扱われて
尋常でない。クリスチャンが「暗記するま いるかに関心をいだいた。しご くそっけな
で」といえば当然、聖書を連想させる。青年 く、ほとんど印象にのこっていない。山本氏
時代の山本氏は小林の文章をそれほどに「微 が力を込めて論し評価したのは富永仲基の
底的に読み返し読み返し」したのである。 「加上論」だった。後代付け加えられた「加

小林は知ることと分かること、分かること 上」を全部取り除けば神儒仏ともしごく単純
と信じることを論じ続けてきたが、ついにク な「天地自然の理」に至るというのである。
リスチャンにはならなかった。そうならない 私はそこで、ごく自然に無教会派を想い浮
かたちで信しようとした人である。そして、 かべた。山本氏は仲基の「加上論」をかりて
ベルグソン論の挫折後、しばらくの沈黙のの 日本教徒キリスト派としての重大な告白をし
ちに「本居宣長」に取り組んだ。それはそれ たのである。いかにも氏らしい流儀の告白だ
で小林流の信仰だったのだろうと私は解釈し った。
ている。

(了) だが、「日本教徒キリスト派」と自称した

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ー大浦暁生

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著者はしがき

本書は一九八九年五月、ボルティモアで開催されたジョンズ・ホブキンズ大 学医学部精神医学科主催の「情緒障害に関するシンポジウム」で行なった講演 を端緒とする。講演原稿は大きく書き足されてエッセイになり、その年十二月 に『ヴァニティ・フェア』誌に発表された。当初はパリ旅行のときの話から始 めたいと思っていた。自分がかかった鬱病の発達という点から見て、わたしに は特別の意味を持つパリ旅行なのだ。しかし、例外的に多くの紙数をその雑誌 からもらったとはいえ、やむをえない限度があり、自分の扱いたい他の事柄を 優先して、この部分は割愛するほかなかった。今回の版でこの部分は冒頭のし かるべき箇所に戻されている。その他の部分は、比較的小さな二、三の変更や 追加を除いて、当初雑誌に発表したものと変わらない。

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