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コペンハーゲンから列車でパリに来ると、ニューヨークの一旅行 会社の気まぐれな決定でホテルワシントンに落ち着いたのだ。当 時そのホテルは、主としてアメリカ人の非常につましい旅行者た ちのために作られた数多い質素なじめじめした宿の一つで、宿泊 客がもしわたしのように初めてフランス人とそのおどけた気まぐ れに対して神経質に衝突した場合は、エキゾチックなビデがうす ぎたなS寝室の中にしっかりと置かれ、その一方トイレはうす暗 S廊下のはるかかなたにあって、ガリア文化とアングロサクソン 文化の隔絶をみごとに明示していたことをいつまでも記憶してい るだろう。だがわたしはホテルワシントン にごく短期間しか滞在 していなかった。何日もたたないうちに、新しく友だちになった 若いアメリカ人たちにそこを出るようそそのかされ、カフェ「ル ・ドーム」など似合い の文学的たまり場に近いモンパルナスの、 いっそうみすぼらしくはあるがずっと華やかな・ ルに居を移し てしまった。(二十代なかばのわたしは処女作の小説を出した直 後で、有名人になっていたが、パリのアメリカ人はほとんどその 小説を読んだことはおろか、本の名を聞いたこともなかったか ら、ごく低い ランクの有名人だった。)こうして何年もたつうち に、ホテルワシントン はしだいに意識から消えていった。

けれどもその十月の夜、多雨にけぶる灰色の石造正面玄関の前 を通ったとき、そのホテルはふたたび姿を現わして、何十年もま えそこに着いたときの回想があふれるばかりによみがえり、運命 的な一周をなしとげたと感じさせた。翌朝パリをたってニューヨ 1クに向かったとき、もう水遠に帰って来ないだろうとひとりど とを言ったのを思い出す。もうふたたびフランスを見ることはな

っと高貴な文化的満足をめざしてデル・デュカは高名な慈善事業 実へと発展し、その線に沿う出版社を設立して文学的価値のある 作品を世に出しはじめた(たまたま、わたしの処女小説『闇の中 に横たわって』が『闇の寝床』の題名で訳され、デル・デュ カの出版点数に含まれていた)。一九六七年に彼が死ぬころには、 この出版社エディシオン・モンディアル社は重要な存在の多角的 企業で、富裕だが権威があり、デル・デュカの未亡人シモーヌが 故人の名にちなんだ賞を毎年授与する仕事を主な事業とする財団 を創立したとき、マンガ本から起こった会社だということを思い 出す人はほとんどなかった。

シノ・デル・デュカ・モンディアル賞はフランスで高い評価を 受けるようになったが(フランス人は文化賞を与えることに快く 酔いしれる国民だ)、すぐれた人物を偏ることなく受賞者に選ん できたばかりか、賞金自体が多額で、その年は二万五千ドルに近 かったという理由もあるだろう。過去二十年間の受賞者のなかに は、コンラッド・ローレンツ、アレホ・カルペンティエール、ジ ャン・ アヌイ、イニャツィオ・ シローネ、アンドレイ・サハロ フ、ホルへ ルイス・ボルヘスといった人たちがあり、アメリカ 人はただ一人ルイス・マンフォードだけだった。(女性の受賞は まだない。女性解放論者よ留意せよ。)とくにアメリカ人として、 わたしはこういう人たちの中に名を連ねることを名誉と感しな S ではおれなかった。賞を与えたり受けたりするときには、ふつう さまざまな要因から偽りの謙遜、陰口、自虐、嫉妬などが不健康 に起こってくるものだが、わたし自身の考えでは、たとえ必要で なくても気持よく受けられる賞もあるはずだと思う。デル・デュ

ばに目をさまし、まずは爽快な気分だと自らを診断して、そのよ い知らせを妻のローズに伝えた。軽い鎮静剤ハルシオンの助けで 不眠症をどうにか撃退し、数時間の睡眠がとれたのだ。こうして わたしはさわやかな気分だった。しかしこのように力弱い 快活さ はいつもの見せかけで、ほとんど意味がないとわかり、日が暮れ るまでにひどい気分になると確信していた。悪化してゆく病状の

William Styron

一九二五年、ヴァージニア州の古 い町ニューポート・ ニューズに生まれる。デューク大 学卒業後、処女作『闇の中に横たわり て』(五一)で 南部の一家族の崩壊を描き、フォークナーのあとをつ ぐ新人として注目された、その後『ロング・マーチ』 (五三)、『この館に火をつけよ』(六O)をへて、一八 三一年の奴隷反乱を扱った問題作『ナット ターナー の告白』を六七年に発表、ピュ 1リッツァー賞を受け た。さらに七九年、大作『ソフィーの選択』でアウシ ュヴィ ツを体験した一女性の苦悩を軸に、絶対悪と 罪の問題を追求した。小説は以上五編のみの寡作で、 他に戯曲やエッセイ集があり、死刑廃止など社会的発 言も目につく。ここに訳出した『見える暗闇』(九○) も、鬱病を体験した自己の精神の赤裸々な記録であり ながら、精神医療に対するさまざまな問題提起を含ん でいる。その意味では一つの社会的発言だが、同時に 一種の自殺論でもある点に注目したい。

(大浦暁生)

心的なこの道の権威者たちは、重症の愛病が簡単には治らないと いう事実をま正面から受けとめている。たとえば糖尿病のように はいかない。糖尿病ならブドウ糖に対するからだの適応能力を調 整する直接的手段を講じて、危険なブロセスを劇的に逆転させ、 病気を支配することができる。ところが鬱病はほとんどの段階で 急速に適用できる治療法を持たない。病状を軽減できないことが この病気のもっとも悲惨な要因の一つで(それは思者にもおのず とわかる)、鬱病を難病の部類にしっかりと位置づける理由の一 部もなる。悪性または変性として厳密に指定された病気でなけ れば、投薬や理学療法、食事療法や外科的治療など、なんらかの 種類の治療を行なって、その結果快方に向かうことが期待できよ う。病気の徴候をまず和らげ、そこから最終的な治癒にいたる理 にかなった前進をつづけることができるのだ。ところが恐ろしい ことに、重症の鬱病に苦しむ一般患者は、市販されている多くの 書物を何冊か読んでみて、基礎理論や症候学の方面では多くのこ とを知るが、急速な救済の可能性を筋道だてて示唆するようなも のをほとんど見つけることができない。たやすく抜け出る道を実 際に説いているものは口先だけで、まずほとんどまやかしと見て いい。治療と治癒への道を知性的に示す良心的な一般向きの著作 もあって、ある種の療法(心理療法か薬物療法、または両者の組 み合わせ)を用いれば、きわめてしつこい破壊的な症状の場合以 外はげんとうに健康を回復できることを示している。しかし、そ うした書物のなかでもっとも賢明なものでさえ、重症の鬱病は一 夜では消えないというきびしい事実を強調する。こうしたことが すべて、困難だが本質的な現実の姿を雄弁に示しており、わたし

問題は純学問的な事柄でしかないと思われる。だが疑いもなくい つもの病の徴候がまだ隠れていたために、わたしはパリのその 朝、ともあれ落ち着いた気分でなんの障害もなく、シノ・デル・ デュカ財団のあるセーヌ右岸の栄光にみちた華麗な宮殿におもむ いた。その宮殿のロココ様式の大広間で、わたしはフランス文化

能しているのに、午後のなかばごろかもうすこし後になって病気 の徴候が出るのを感しはじめる。陰鬱な気分が押し寄せ、恐怖感 と疎外感、そして何よりも喉をしめつけられるような不安を味わ うのだ。 いちばん苦しい時間が朝か夕方かということは、基本的 にはどうでもいい問題ではなかろうか。極度に苦しい麻痺にも似 たこの状態はおそらく同様のものだろうし、もしそうなら時間

人たちの小さな集まりを前に賞を与えられ、まずまずの落ち着き
だと感しながら受賞のスピーチを行なった。ヌイイのアメリカ病
院など仏米親善を育成するさまざまな団体に賞金の大部分を寄贈
するが、愛他主義にも限度があって(と冗談を言いながら)、少
額をわたし自身のために残しておいても悪く思わないでいただき
たい、とわたしは述べた。

スピーチでは話さなかったし冗談でもなかったが、わたしの残
しておいた金額は、すみやかにローズと合衆国に帰れるよう翌日
のコンコルドに乗る切符二枚の支払いにあてるものだった。ほん
の数日前になってやっと精神科医にみ もらう約束をしたのだ。
精神の崩壊が進んでいるという現実を受け入れたくない気持とき
っと関係があるのだろうが、わたしは苦痛が激しくなっていった
過去数週間のあいだ、精神病的治療を受けることをけてきた。
しかし対決をいつまでも延ばして くわけにはいかないとわかっ
ていた。そしてついに世評の高い臨床医に電話で連絡をとると、
彼はわたしにパリ行きを勧め、帰国後できるだけ早く会おうと言
った。わたしは帰国する必要、しかも早く帰国する必要がほんと
うにあったのだ。自分が深刻な難病に見舞われているという証拠
があるにもかかわらず、わたしはバラ色の見方を持ちつづけたか
った。鬱病に関して入手できる文献の多くは口当たりよく楽観的

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