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おなご

て行ったことが、併せ分った。そこ迄するのはよくせき避 けがたい事情があったのだろう。が、金を持って逃げると いうのは、これからその女といっしょに「どこぞで。」生 きて行くということではないか。むめはサラカツギ(捨て られた女)になったのだ。併しそんなことにはおかまいな しに、債鬼は容赦なく押し掛けて来る。そうなるととも男 の親元にはいられたものではなかった。心を「棒にして。」 女の子を男の親元に残し、家を出た。併しむめには帰る家 はない。銭もない。可愛いさかりの女の子は、たった今が 今、捨てて来たばかりだ。妻鹿の吊橋を渡って、市川の土 手を姫路の方へ歩いていると、冬の播州平野の空高く高が 舞っていた。獲物を捜しているのだ。空の青さが目に沁み た。むめもこれから「どこぞで。」喰い扶持を捜さねばな らない。世間は米騒動鎮圧後の不景気のさ中だった。

むめはそれから交屋へヌレワラジ(下働き)に入ったの を皮切りに、綿屋、燭屋、骨接ぎ医者の家などを風呂敷 荷物一つで転転とした。根が骨惜しみをしな い たちなの で、どこへ行っても重宝がられたが、併し長くはおいても らえなかった。暗然とした。親切な従姉の世話で、こんど は大地主の家においてもらうことになった。ある日、そこ へ骨董物の大皿を買いに来た男の口から、むめを捨てて逃 げた男とその女の末路を知った。京都九条の長屋で流行性 感冒に罹って二人とも死んだ、と言うのである。聞いて見 れば、呆気ない成れの果てだった。青蚊帳 中を飛んだ蛍

なんど

父親の死である。それを思えば娘が哀れでならなかった が、併しむめ

のち三十年が過ぎて、なおそれである。そうしてむめに仕 度させた昼的の膳で、勇吉は執拗に魚の骨せせりをするの である。最後は「骨茶。」と言って、煮魚の皿に熱いお茶 を注いで呑むのである。皿にはしゃぶり尽くされた骨だけ が残る。晩酌の膳も同じである。併しことは魚の味つけだ けではない。それ以上にむつかしいこととなると、も早、 むめが手をふれることは出来なかった。家族の中に血のつ ながりのある者がいない。いつも納戸の杉戸の陰に背屈ま っていた。その息づかい のどこかに怯えたような気配がひ そんでいた。恐らくはヌレワラジとしてくり返し他人の家 へ入っては「出された。」過去が、絶えざる現在として息 をしていたのだろう。併し吉田の家ではすでに、一度の味 見に三遍も四遍も煮汁をはこぶ、というようなことをくり 返しながら、三十年以上もおいてもらっていたのである。 勇吉の性根がそれをそう計らって来たのだ。勇吉もまたこ の世の外へ「出された。」男だった。

私が子供のころ吉田の家で呼吸した底深い沈黙。無論、 そのうめきにも似た不気味な沈黙を呼吸したのは私だけで はないだろうが、併しそれについて語る者は誰もいなかっ た。語ることはあばき出すことだ。それは同時に自身が存 在の根拠とするものを脅かすことでもある。「虚」が「実」 を犯すのである。だが、人間には本来存在の根拠などあり はしない。語ることは、実はそれがないことを語ってしま うことだ。だから語ることは恐れられ、忌まれて来た。併

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の生魁魅のようなものが、家の中のどこかに息をしている のを感じることがあった。その時分、吉田の家には勇吉ゆ き畜保雄むめのほかに、私の母の妹が二人、弟が三人い た。そのうち上の妹多恵子はまもなく東京の内務官僚のと ころへ嫁き、長弟俊夫は鳥羽高等商船を「出た。」あと日 本郵船に入り、氷川丸の三等機関士として世界航路の船底 で暮すようになったので、あとは文子宏之、私より一つ年 上の末弟雅彦の三人だった。文子は旧制姫路高女の最後の 卒業生で、その年の春、津田塾の入学試験に合格したが、 「家の事情で。」行かせてもらえなかったころから、少しず つ目に気鬱がにじみはじめ、その落ち込みからやや立ち直 り掛けたころ、恋を失った。ある日私が吉田の家へ行く と、文子叔母が庭の真ン中に大きな娘を持ち出して、血み どろのズロースを洗濯していた。私は驚いた。それは去年 の七夕さまの晩、水に天の川を渡る織女星を映し見た娘

吸した闇の力について語っているのである。語ることは自
分を崖から突き落すことだ。併し文子叔母の血みどろの
ズロースは言うに及ばず、私にとっては、多恵子叔母が東京
の高級官僚のところへ嫁ぎ送なく暮していることさえ、不
気味な闇の力だった。不気味なものは語ることを人に強い
る。俊夫叔父がくれたアメリカ合衆国一弗銀貨を手にした
時の喜びは、「大きいおばあちゃん。」がくれる五円玉の比
ではなかった。近所の年上の女の子に見せると、いきなり、
「くれ、くれ、くれッ。」

と叫んで近寄って来、平手打ちを喰わされて取り上げら
れた。銀貨の美しい輝き、それは闇の力だった。私が見せ
びらかしをしたのも、女の子が悲鳴を上げたのも、その闇
の力の輝きがさせたのだ。母がその子の家へわけを話しに
行くと、その子は「与一ちゃんがやる言うたのに。」と言
い張ったという。併しそうしてもう一度私の手に戻った銀
貨は、も早それを所有することが不気味に感じられるもの
でしかなかった。銀貨それ自体が持つ悪の輝きが、表に露
出していた。そういう謂では、この女の子の平手打ちは、
私にものを所有することの喜びと恐ろしさを思い知らせた
最初の事件であったかも知れない。私が小学一年生の時の
ことだった。

その年、昭和二十七年は宏之は県立姫路西高等学校二年
生だった。夏の暑い日に吉田の家へ行くと、座敷に大の字
になって寝ていた。夏は毎日のように市川へ泳ぎに行って

たばかりの翡翠を見せてくれた。理斯籠の中のそれは、目

道と渡り合うこともある吉田の家の静けさとは異質な息づ かいが、宏之の中に流れていることを感じたということで あったかも知れない。併しそうは言っても、こちらはまだ ほんの子供である。日常のごく有りふれたことの中で、空 の虫龍が記憶に残ったというに過ぎないだろう。

当時、宏之はすでに青年と称んでもいい年齢に達してい た。僅かに残された遺品から推し量って、そのころマルタ ン・デュ・ガールの「チボー家の人々」やドストエフスキ ー、萬葉集、森鴎外の文庫本などに読み耽っていたらし い。やはりその時分に読んだと思われる和辻哲郎の「ニイ チェ研究」の余白に、今も青インキの色が鮮烈な文字で 「俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている。」 と書き残しているが、これは「隠れて。」というニュアン スを除けば、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語り き」の中の言葉をほとんどそのまま転写したものだ。併し それは「隠れて。」という一語が挿入されることによって、 宏之の言葉になっている。ツァラトゥストラの言葉は未来 への予言として語られているが、宏之は今のこととして言 葉を呼吸している。恐らくは無意識のうちに挿入したのだ ろうが、併しそうであるがゆえに、当時、上べには見えな い部分で息をひそめて生きていたらしい生身の宏之の心臓 が伝わって来るのである。が、それは今の私に伝わって来 るのであって、当時の私は母からもらった化粧品の国の中 で飼育していた尺取虫が逃げたと言って、泣き面をしてい

どは馬だって警戒しているだろう。一瞬のためらいは永遠 のためらいだ。私がいつ迄も尻込みしていると、宏之叔父 の姿が消えた。するとその時になってようやく決心がつい た。私は目をつぶって、くぐり抜けた。くぐり抜けて見る と、実に簡単なことだった。併し「宏之兄ちゃん。」の見 ている前でくぐり抜けることが出来なかったのは、いかに も残念だった。納屋の二階の宏之叔父の部屋へ行って、必 死の気持で「わいち馬の腹の下くぐった。」と言ったが、 宏之叔父は気のない声で「そうか。」と言っただけだった。 これではくぐり抜けることが出来なかったのと同じだと思 った。私は黙って部屋を出るほかなかった。

氷川丸が神戸港へ入ると、俊夫叔父はいつも渋面の奥に 薄ら笑いを浮べて、鶴の剥製とか象の牙とか珍しいものを 抱えて帰って来た。併し一度、宏之叔父に連れられて、神 戸港に着岸した氷川丸へ俊夫叔父を訪ねて行ったことがあ る。その日、三ノ宮センター街ではじめて黒人兵を見、爪 の赤い女を見た。爪の赤い女を見て化物だと思った。水川 丸のキャビンで、新聞を広げた俊夫と宏之が「スターリン が死んだ。」と言っていたから、昭和二十八年三月のこと だったのだろう。核に納められたスターリンの神々しい顔 が、新聞の一面に大きく出ていた。神戸税関では、はじめ て地下室へ降りた。夕刻、元町の食堂で食事をしたあと、 大丸の前の日東館で、俊夫叔父に一冊の本を買ってもらっ

ばけもの

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