の苦しみの軽減を手に入れる。その経緯を証 小・中学校の国語の教科譜編纂に際し、動物 も責められはしない。
の死を含むような暗い内容の文章を採用しに
考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも くいため、教材の選択に苦労する、との話も
軽いものとし、手を尽くしてそれを弱める方 聞く。これなども、苦しみや痛みに対する予
向へと動いているようである。最期の近い病防処置の一つといえるかもしれぬ。少しずっ
人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無 でも苦痛に触れさせて慣らすことを考えるの
理としても、それを最小限に抑える配慮は医 ではなく、その種の課題を最初から排除して
療面でも払われているのだろう。そしてその しまう。子供や生徒が嫌ったり拒んだりする
種の手当てが自宅では充分に行えぬとした からというより、教える側の大人が怯むので
ら、病者は病院に入れられねばならない。こ はないか。苦しみを教える苦しみからの逃避
の直接的な苦しみの排除と、苦しむ者を見詰 の姿勢がそこに見られる、と考えるのは見当
め続ければならぬ、いわば間接的な苦しみの 違いであろうか。
回避とが結びつき、人は畳の上で死ぬ力を失 世の中全体が、苦しみから身を躱す術に長
ってしまったのではないだろうか。
けて来た。見なければそこには存在しない、
別の見方をすれば、畳の上で死ぬことには という信仰が広まりつつある。そして事実を
自他ともに委しいエネルギーが必要だったの 置去りにしたかかる信仰を支える装置とでも
だ。そして苦しみを遠ざけ、それを避けよう いったものが、大きな規模で生み出されて来
とする正当な努力が、しかし苦しみを直視 た。その装置や仕組みのいずれもが、幸福と
し、苦しみに向き合う力を、いつか人間から か、安心とか、平和とか、休らぎとかを目指
い去る傾向を助長しつつある。
している。つまり、信仰にはそれなりの正当
その問題は、他の場所にも様々な形で顔を 性と物的保証がある。
のぞかせているのではあるま S か。たとえ そして、人は苦しみの消滅に出会う。置の
ば、子供の読む童話や民話の本から、残酷な 上で死ぬことを望むのは、最早どこから見て
光景や死に関わる部分が取り除かれたり、隠 も時代遅れなのである。今や我々は、ろくに
されたりするのだとしたら、これは幼い心か 畳の上で生きてもいないのだからー
ら予め苦しみを遠ざけることによって、苦し
みとつき合う機会を奪う結果となるだろう。