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工場では旋盤の列のひとりおきに朝鮮人工員がつくよう
になっていた。つまり全くの素人の中学生に、熟練の工員
が指導係もつとめる仕組みだったが、私の隣の旋盤の工員
は年のころ三十歳ぐらいで、背が高く骨格が大きな男だっ
た。その時期、すべての朝鮮人に日本式の名前への改名が
強制されていたにもかかわらず、彼は「李です」と本当の
名前を自然に名乗った。その態度が快かった。私も「李さ
ん」と呼んだ。

戦争の状態はわれわれに知らされている以上に悪いらし
く、日ましに工場の幹部たちは目に見えて苛立ち、労働条
件は いよいよ苛酷になってくるが、李さんは平静そのもの
だ。生活のために軍需工場で仕事するが、仕事そのものは
いい加減にしない、とその仕事振りが言外に語っている。
そんな彼がいつも隣の旋盤で落ち着いて仕事している姿
が、いきなりほうりこまれた鉄の世界のなかでの私の不安
を、どれだけ鎮めてくれたかわからない。

家には老母と妻とふたりの小さな子供がいる、と李さん
は言った。

工場全体を圧する騒音のなかで、その程度の話でさえ、 大声で怒鳴らなければならない。

朝鮮に本格的な梅雨はないが、六月に入るとやはり雨が い。麦畑のなかの泥道は、本ものの るみになる

急に親しくなる

彼は学校の頃と同じように狭い家のなかでも他の生徒た
ちとほとんど付き合わない。日が長くなって工場から戻っ
てもまだ薄明るいが、寮を取り巻いている有刺鉄線の柵に
沿って、ひとりで歩いている姿をしばしば見かけた。夜も
部屋の隅で、たたんだ蒲団によりかかって、ひとり本を読
んでいることが多い。色の白い顔の目鼻立ちが整ってい
て、時折皮肉な笑いを浮かべることはあっても、感情的に
なった彼を見たことはなかった。

私は旋盤を操作するようになって、鉄を削る鉄というも
のを初めて知ったのだが、その特殊鋼の刃はつねに曇りな
く銀色に光っている。周囲とともに自分の気分や感情も不
安定になってくるにつれて、特殊鋼のその冷たい光を美し
いと感じたが、その魅力は沢田の性格に通していた。

寮を囲む有刺鉄線を私たちはくぐり抜けて、よく寮の背
後の荒れた丘の頂まで登った。ゆるやかな丘の連なりに囲
まれた広大な盆地の中央で、工場群の赤煉瓦の壁が夕に
沈んでゆく。

中にいると無限な鉄の迷宮とも思える工場群が、一時の
悪い夢の影のようにしか見えない。盆地のほとんどを占め
る畑では、すでに刈りとり前の麦が一面暗い金色に熟しき
っている。雲の輪郭がめっきり濃くなった夏近い夕空の華
やかな永遠。

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旋盤の動きを停めて走ってゆくと、同級生のひとりが放
心した表情で、フライス盤の前に立っている。まわりには
同じ班の生徒たちが集まっていて、興奮して口々に大声を
たてている。「看護班」とか「医務室」という言葉がかろ
うして騒音の間に聞こえる。

その輪の中に立っている生徒は、右手を体の前に差し出
して、茫然と自分の事を見つめている。その掌のほとんど
全面が、ざくりとえぐり取られていて、中指と薬指の腱が
切れてぶらんと外側に垂れ下がっていた。

フライス盤は鋭S刻みの入った直径二センチほどの小さ
な輪が高速に回転して、部品に溝をつける機械だ。部品を
取り付けるか取り出すとき、右手を一瞬回転フライスに巻
きこまれたにちがいない。

だが奇妙なことに、掌から血が溢れ出しても流れ出ても
いなかった。えぐり取られた掌の皮膚は完全になくなっ
て、露出した白い 肉が刻み混ぜ合わされ、その間にわずか
に赤い筋のようなものが寸断されて見える。缶詰のカニの
肉そっくりである。ひくひくと引きつれて、ひとりでに5
ごめく生きた肉だ。

だが本人は叫びもうめきもしない。蒼白で無表情な顔は
仮面のようだが、担架が運ばれてくるとともに、完全に失
神して油だらけの床にくず折れた。
自分の庭盤に戻ると、班長に激しく怒鳴りつけられる。

「お前たちなんか殴り殺したっていいんだぞ」 憲兵の怒声が、目の血走ったその顔のように醜く赤黒

so

ビラネージは十八世紀イタリアの版画家である。

時折いまも、私は彼の幻想画に、時間を忘れて見入って いることがある。

二週間に一度の帰休だけが、地下的な黒S世界の天井の 隅にあいた小さな地上への穴だ。 土曜の昼勤が終わって、そのまま並んで駅に向かう。約

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に比べたら、いまの私はまさに植物以下の奇態な生きもの だ。

原さんの家の人たちは変りなく私を迎えてくれる。無理
をして食事を用意してくれる。二週間機械油のしみこんだ
作業服を洗ってくれる。だが私が四月までの私ではないこ
と、何かを失い、何か余分のものを身につけたことを、と
くに良江は敏感に感じとる。煙草を吸い始めたことに眉を
ひそめる。動作が何となく粗雑になっていること、話して
いる途中でふっと勝手に黙ってしまうことを、良江が気づ
いていることを私も気づく。帰る毎に彼女の気持が一歩ず
つ遠くなってゆくように感ずる。同し二階の部屋で、私が
勉強し彼女が洋裁の仕事をしていたときの、充実した夜の
静けさはもうない。

実際に私はもう自分の机に向かうことはない。机の上の
参考書も本も、いまは言い難い悲しみをかきたてるだけ
だ。自分のなかの時間の、前向きのヴェクトルがなくなっ
ていること、二週間おきの貴重な今だけを味 いつくそうと
していること、つまり私の時間が澱んで死にかけているこ
と、自分が自分でなくなりかけていることを、いやでも思
S知る。

土曜の夜はまだいい。だが日曜の午後になると、月曜早
朝にまた京城駅に集まって工場と寮に戻らねばならない事
実か、何をしていて意識を内側から侵蝕し始める おば

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