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暗い影。ゆうぐれに公園を飛び回る蝙蝠。

あの人はもうすべてを諦めた静かな目であたしを見てい る。ベッドの下に落ちていた双眼鏡を棺の中に置くように そっと置いてささやく。 「これで、毎日何を眺めていらしたんですか。咲さん」 「すべてを」 あたしは最後に答える。蝙蝠の声で。

ひとりで死ぬのはいやだ。はっきりと、あの人の頭にそ
んな考えが生まれたのではないだろう。ただ誰かと一緒に
最後の散歩をしたいと思ったのに違いない。
「すっごい、大きな木。なんていう名前?」

聞かれたら、答えてあげよう。そのためにもう一ヵ月、
植物図鑑に首っぴきなのだから。
「それは菩提樹。お釈迦様がその樹の下で悟りをひらいた
のよ」

なんて説明してあげられたら上出来だ。
「こっちの樹もすごいよ。まるで大きな家みたい。僕、樹
の上で暮らしたいな」

もし小学校の低学年だったら、『木を植えた人』の本を
一緒に読もう。高学年だったら、イタロ・ カルヴィーノの
『木のぼり男爵』の本を貸してやるのもいいだろう。

他にも一緒にしてあげられることはたくさんある。秋が

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んある。たとえば草むらの虫、眠っている鳥。そうだ、騙
蝠がたくさんいるというのはどうだろう。男の子はみんな
蝙蝠が好きだから」

私はそんなことを呟きながら、公園の中を歩いていた。
あの人の死と最後の殺人を急いで書き上げなくてはならな
かったので焦っていた。締切日までに、もう一週間しかな
い。

凝ったディテールはいらない。複雑なアリバイとか、ト
リックも今度は使わなかった。最初から考えていた通り、
まるで楽しい遊びの続きのようにあの人を殺すのだ。

あの人の最後の連れを誰にするか長い間迷っていた。老
婆にしようかとも考えた。いなくなっても誰も悲しまない
としとったひとりぼっちの女。でも木と縊死というイメー
ジがいかにも老婆にはそぐわなかった。若い男という線も
捨てがたかった。例えばあの杖をついた青年のように、恋
というより不思議な共感によって引き寄せられるというこ

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写楽堂

男の子が何か言おうとして口ごもると、あの人は新しい リフレインを歌い出す。男の子もまた後から唄う。重なっ たり、追いつかれたりしながら二人の声は公園の中を流れ た。流れて、また戻ってきた。もう他にはどんな物音もし なかった。

そこが都内のはずれにある公園の中だということを私も
いつしか忘れていた。

待っていた夕暮れは静かに近づいて、その罠を狭めてい
く。男の子は唄い疲れた眠そうな目であの人を見つめてい
る。しぱしぱさせるまばたきの音が聞こえてくるような深
S静寂。あの人は子どもの背中をそっとさすっている。も
しかしたら、苦痛をやわらげるためにあの人は男の子を眠
らせてから吊すつもりなのではないだろうか。蓑虫のよう
にバスタオルか何かでそっとおおって若いハンノキに吊す
のだ。

男の子が風の音で目覚めたら、添寝をするように隣の技
で自分の身体をかすかに揺すってみせるだろう。
「眠りなさい。眠らないとぼうやの頭を蝙蝠がつつくわ
ょ」

一晩かけて秋の初めの風に揺すられながら、二人は優し
くくびれて死ぬだろう。

私の頭の中に小説の最後の文章が浮かぶ。 「これであの人が完全に滅びたと思うのは間違っている。 それは今夜のあの人のことだ。明日になれば、あの人はま

た公園にやってくる。あの人に見つめられた人はきっと呟 くだろう。今日もまたあの人が来ている、と」

「もう来ないでくれ」

手術用のベッドに寝かせられた竹井さんのひとことが僕
にはすぐに信じられなかった。打ったばかりの麻酔が効き
始めていたのだろうか。驚いて聞き返そうとすると、竹井
さんは目をつむって顔をそむけた。

僕が退院する日と竹井さんの手術の日が重なるなんて、
最初から気が重かったのだ。
「いいじゃないの。九月で最初の大安だもの。退院だって
さいさきいいし、僕の手術もきっと成功するよ」

前日まで竹井さんはいつもの穏やかな顔でそう言ってく
れたのだ。
「いろいろお世話になりました」

退院する日には仕事でこられないという母親が荷造りを
してくれるのを見ながら、昨日少し照れて礼を言った。本
当に竹井さんがいなかったら、僕の入院生活は数倍みしめ
なものになっていただろう、と思った。
「とんでもない。こっちこそいろいろ話が出来て楽しかっ
たよ。特に昨夜話してくれたアノ話、忘れないよ」
「なに?」という表情でおふくろがものといたげな顔を向
けた。
竹井さんと僕はうなずきあって笑った。

僕の退院があさって、ということに決まった夜、竹井さ
んに公園であったあの人の話をまるで推理小説みたいに話
しておいたのだ。
「僕も歩けるようになったら、公園に行って、あの人の正
体を必ず暴いてみせるよ。日本人なのか。ちゃんと意志の
疎通は出来るのか。人妻なのか。そして、なぜ公園に通っ
てくるのか。事実は小説より奇なり。結果がわかったら知

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た僕はなんと無神経に公園と公園に通ってくるあの人の話
をしたことか。
「僕、その人が眺めているもの、眺めずにはいられないも
のが何なのかわかる気がする」

竹井さんはあの人の話を聞いて、そう言った。
「切断することに決ってから、手術の日まで十日間あっ
た。僕はまだ九歳だった。九歳の子どもに足を切るって決
めてから十日間待たせるなんて、ひどく残酷で無神経なこ
とだよ。最初の二日ぐらいは足がなくなるってことがどう
いうことか全然想像がつかなかった。自分の周りでいろい
ろ身体の不自由な人を思い浮かべたりしてね。それから後
の三日くらいは手術が怖くて、怖くて、病院を抜け出すこ
とばかり考えていた。でも......残りの日はね、ずっと足を
見つめて、これがもうすぐなくなるんだって自分に言い続
けた。手術の前の日、僕は自分の足がなくなっているのが
わかった。本当にわかったんだ。見つめるってすごいこと
だよ。見つめ続けるってそういうことだよ。多分、あの人
は九歳の僕が右足を見つめるみたいに、みんなを、すべて
を見ているんだと思うよ」

僕は竹井さんの言ったことを思いだしながら、病室を静
かに歩きまわった。もう足は全然痛まなかった。痛まない
ということがなんだかとてもせつなかった。まるで僕も義
足になったような気がした。
「貢さん。お迎えの車よ」

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