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「いえ、多分、人違いだと思います」

あの人だったような気がしたのだ。でも過ぎてみると、 あの人と間違った中年の主婦だったような気もする。 どっちだっていい。 モウコナイデクレ。竹井さんの声が蘇る。そうだ。どっ ちだっていい。僕はもうきっとこの公園にくることはない だろうから。

内 はじまり

あの人は今日も来ている。

裏も表も黄金色に輝く銀杏があの人とあの人の黒い自転
車の上に休みなく落ちる。静かに重なる黄金色の波の上で
あの人は身動きひとつしない。布製の鍔の狭い帽子を目深
にかぶり、誰かを待ち伏せているように遊歩道に目を凝ら
している。

はもうみんな落葉した。悔や操も踏みしだかれた茶色
のモザイクになってしまった。

あの人はしれるふうもなく、飽きもせず長い時間立ち尽 くしている。緊張とも放心もつかぬいつも同じ姿勢。黒 Sセーターにおおわれた二本の腕はほっそりした身体の線 にそって垂れ、頭も首も自然な角度に上げられている。 の人は何を待っているのだろう。

(了)

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而立書房 〒101 東京都千代田区猿楽町2-4-2 TEL 03-3291-5589 FAX 03-3292-8782

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度はど情事を行なっていたらしい。それは公然の秘密で、
父はもちろんそのことを知っていたに違いない。しかし、
父もまた女遊びをした。女中と恋仲となり相聞歌を作り、
医局時代は盛んに遊師に通ったりした。今の時代から見れ
ば、喧嘩両成敗と言ってもよかろうが、なにせ男尊女卑の
大正時代のことである。父は叱るより先に手で妻をぶんな
ぐったそうだが、母は負けてはいなかった。とにかく、生
来肌のあわぬ夫婦であったことは確かである。

母の情事は青山脳病院の一部の人のあいだで噂されてい
たが、「ダンス ホール事件」は新聞のゴシップ記事となり、
父も母も警察に呼ばれて事情聴取をされた。

口より先に手がとぶと母が言っていた父が、この天下に
公然となった醜聞に激怒したのは当然である。何日か悩ん
だ末、父は母に家を出てゆけと命ずる。同時に世間に顔向
けできぬから院長の役も止めると決めて副院長に相談した
が、懸命に説得されてそれだけは思いとどまった。

母は一時、自分の母親の里である秩父へ行ったらしい
が、そのあと父の弟高橋四郎兵衛がやっている山形県上山
町の高松屋旅館に滞在するようになった。父は弟に、妻輝
子を厳重に監視し、半ば幽閉状態にせよと命じたそうだ。
四郎兵衛叔父は朴訥だが、半面大酒飲みで、利かんきで頑
固で物事もズケズケ言う性格であった。しかし、母はそれ
以上に我磁勝手な女である。さすがの四郎兵衛も母を長い
こと留めておくことはできなかった。或いは母が無断で

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