てきたような気配に、私たちは目を覚ました。愛やが出て ゆき、二人の唐紙越しの会話でそれが母であることが分っ た。 「ママー」 と私たちは言いあい、すっかり目を覚ましてしまった。 と言った。そして、隣りの電話室と呼ばれていた小部屋 階段の上から左手に父の書斎があり、右手には母の部屋 父の書斎にはあまりに本が多量にあるので、私は畏怖の 中でも私は、母の鏡台の引出しを開けてみるのがとりわ 粒もあったし、真珠の首飾りの糸が切れて、大きいのや 母は階段の上に現われて、声は出さず、手で早く寝なさ いというような仕種をした。どのくらいの間、上と下と で、親子が立ったまま見合い あっていたかも覚えていない。 とにかく私たちは七畳半の部屋に戻り、布団の中にもぐ りこんだ。 翌朝、目覚めたときには母はもう家にいなかった。それ 今から思えば、父の逆鱗に触れて出て行けと命じられた その夜、書斎に父がいたかどうかも、これまたまったく 母の不在の日は長くつづいた。しかし、斎藤家の子供た ただ、そのあと私は母の部屋に行かなかったように思 正確な日時は不明である。 と言って、昔は高級であったらしいその緑色の葡萄を、 ともあれ、世田谷の家でたまに会う母は妹さらに優しく ときどき四人の子供たちを、郊外にドライブに連れて行 なかんずく記憶に残っているのは、どこかの川に土曜か ら釣りに出かけて、獲物はほとんどなかったが、誰かがば かでかい璧を釣りあげたことだ。かなりの遠出だったらし 帰途宿に一泊したが、夜中にその蟹が袋を破って逃げ は いうものは凄いものだと思った。 どこか広い野原で、弁当を開いた。今でもよく覚えてい 青山の家の食事に比べ、世田谷の家のそれは格段に御馳 母は百子が器量よしというので品屓で、よく彼女を連れ また母と私だけで、どこかの料亭の一間で食事をした とがある。部屋の隅に、仲居さんが御飯のお代りなど を被むって、その子供たちのことも面白く思わなくなった 彼女も、さすがにあきれ、私のことを気の毒に思ったと言 う。 おそらく小学校も上級になった頃であろう、或る日曜 それ以来というもの、ほとんど毎週の日曜日、私は一人 父は私たちが母に会いに行くことをとうに気づいていた と、詰問された。多分私は、友人のところへ行っていた |