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てきたような気配に、私たちは目を覚ました。愛やが出て ゆき、二人の唐紙越しの会話でそれが母であることが分っ

た。

「ママー」
「ママだ」

と私たちは言いあい、すっかり目を覚ましてしまった。
幼な子の目にも父はおっかなく感じられたし、それに比べ
ると母はずっと優しかった。私たちが妙に嬉しくなって、
はしゃいで起きてゆくと、母は、
「もう晩いから寝なさい」

と言った。そして、隣りの電話室と呼ばれていた小部屋
の階段から二階へ登って行ってしまった。

階段の上から左手に父の書斎があり、右手には母の部屋
がある。

父の書斎にはあまりに本が多量にあるので、私は畏怖の
ようなものを感じていたが、母の部屋はもっと魅力的であ
った。

中でも私は、母の鏡台の引出しを開けてみるのがとりわ
け好きだった。小さな丸いゴムのついたカットグラスの香
水吹きがあった。とりどりの化粧品のびんが並んでいた。
それよりも、もっと驚嘆したのは、大粒のダイヤモンドが

粒もあったし、真珠の首飾りの糸が切れて、大きいのや
小さいのや、深海魚の輝きにも似た真珠の粒が幾つも転っ
ていたことだ。あとで考えてみれば、それらはみんな硝子

母は階段の上に現われて、声は出さず、手で早く寝なさ いというような仕種をした。どのくらいの間、上と下と で、親子が立ったまま見合い あっていたかも覚えていない。

とにかく私たちは七畳半の部屋に戻り、布団の中にもぐ りこんだ。

翌朝、目覚めたときには母はもう家にいなかった。それ
からずっと......。

今から思えば、父の逆鱗に触れて出て行けと命じられた
母は、ひそかに服だの身の廻り品などを取りに家に戻った
のではあるまいか。

その夜、書斎に父がいたかどうかも、これまたまったく
分らない。

母の不在の日は長くつづいた。しかし、斎藤家の子供た
ちを次々と手塩にかけた、柔和な象のように肥満した松田
の婆やが、以前から半ば母親代りになってくれていたか
ら、私たち子供はそれほど寂しがりはしなかった。

ただ、そのあと私は母の部屋に行かなかったように思
う。あの鏡台の中の宝石や化粧品のびんなどは、ちょうど
隣りの原っぱに沢山いた赤トンボやギンヤンマやトノサマ
バッタや、或いはその正体が長いこと分らなかった葉の間
に唾のような泡の巣を作るアワフキムシの幼虫のように、
私の心を魅了さしてくれたにもかかわらず。

正確な日時は不明である。

と言って、昔は高級であったらしいその緑色の葡萄を、
道玄坂辺りの果物屋で片桐に買って貰うのだった。その金
は松田の婆やから出たものか、片桐が病院の会計に頼んだ
ものか私は知らない。とにかく幼い頃、私は小遣いという
ものを全然貰えなかった。それで紙芝居が来ても、飴を買
う一銭がないために後方から覗き見をしなければならなか
ったし、女中部屋の財布から大枚五十銭銀貨を盗み、追っ
てきた書生に逮捕されたこともあった。

ともあれ、世田谷の家でたまに会う母は妹さらに優しく
思えた。青山の家ではおよそしなかったことに、自ら台所
へ行ってプリンだのジェリーだのを作っておいてくれた。
冷蔵庫から勝手に肉だのを持ちだして、自分の離れで親子
水入らずで動焼を食べさせたこともあった。帰りには、米
国という叔父が病院の農園で作っている小さな梨とか、或
いは西洋叔父の貰い物らしい菓子などを、大包みにして持
たせて帰らせた。とにかく我儘勝手な母も、子供らと離れ
て暮しているため、さすがに母性本能を掻きたてたらし
い。

ときどき四人の子供たちを、郊外にドライブに連れて行
ってくれることもあった。

なかんずく記憶に残っているのは、どこかの川に土曜か ら釣りに出かけて、獲物はほとんどなかったが、誰かがば かでかい璧を釣りあげたことだ。かなりの遠出だったらし

帰途宿に一泊したが、夜中にその蟹が袋を破って逃げ

いうものは凄いものだと思った。

どこか広い野原で、弁当を開いた。今でもよく覚えてい
るが、松茸をバタでいためたものが多量に入れられてい
た。当時は松茸は今のように高価なものでなかったはずだ
が、青山の家ではそんな豊富に松茸を食べたことがなかっ
た。父は山形県の農家の出身で、万事に質素であった。大
好物の鰻にしても、家でとるときは上中下とあると、中で
満足していた。それも自分だけしょっちゅうとって、子供
たちにとってくれることは少なかった。おまけに勉強ばか
りしていて、他人が叱られていてもこちらも泣きたいほど
こわかった。これでは私たちが、父よりもずっと母になつ
くようになったのも当然だと言ってよかろう。

青山の家の食事に比べ、世田谷の家のそれは格段に御馳
走が多かった。中でもいちばん贅沢をしていたのは母では
なかったか。

母は百子が器量よしというので品屓で、よく彼女を連れ
て買物や食事などに出かけたらしい。私も一度、母に連れ
られて、どこか地下の西洋レストランに入ったところ、ボ
1イが大きな銀色の皿にハムやらソーセージやらコンビー
フのような肉類を山盛りにして持ってきて、それをいくら
とってもよいのであった。そんな豪勢な思いをしたことは
かつてなかった。

また母と私だけで、どこかの料亭の一間で食事をした とがある。部屋の隅に、仲居さんが御飯のお代りなど

を被むって、その子供たちのことも面白く思わなくなった 彼女も、さすがにあきれ、私のことを気の毒に思ったと言

う。

おそらく小学校も上級になった頃であろう、或る日曜
日、他の者が世田谷へ行かなかったので、私は一人で自転
車で母のところへ行ってみようと思いたった。気弱なうえ
方向オンチの私にとっては、思いきった冒険とも言えた。
けれども車で通った道を必死で思いだしながらペダルを漕
Sでゆくと、想像していたより意外に早く、本院の建物の
見える豪徳寺わきの踏切りに出ることができた。

それ以来というもの、ほとんど毎週の日曜日、私は一人
で自転車に乗り、青山から世田谷の母のもとに通った。と
きには、土曜から泊りがけで行くこともあった。

父は私たちが母に会いに行くことをとうに気づいていた
らしいが、何にも言いはしなかった。やはり子供には母親
が必要だと諦念の気持を抱いていたのかも知れない。ただ
一度、日曜日の夜に私が帰ってくると、
「お前はどこへ行っていた?」

と、詰問された。多分私は、友人のところへ行っていた
とでも胡麻化したと思う。すると、
「お前は嘘をつくようになった」
と、きびしく叱られた。
あはれあはれ電のごとくに閃めきてわが子等すら憎

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