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で採集はしなかったが、少なくとも東京でクロカナブンを
採集したのは根津山だけだったと思う。この黒光りするク
ロカナブンは珍種というほどのものではないが、ふつうの
カナブンに比べては雲泥の差がある。根津山ではカナブン
は嫌というほど見られるが、クロカナブンは数本の樹液を
出している樹をめぐって、一匹か二匹採集できるだけであ
った。

樹液にくる虫たちは、夜のほうがずっと多く集まってく
る。従って、私は世田谷の家に土曜から行くとき、決って
夜に採集に出かけた。だが、中学二年くらいまでは、夜の
根津山に一人で入るのは正直のところこわかった。なにし
ろ深山を思わせる樹木の林立する森であったし、目ざす樹
液をたらしている樹々をめぐるにも、径らしい径とてない
からであった。

そのため、よく私は従兄弟たちについてきて貰った。二
人とも虫には趣味を持っていなかったが、夜の根津山探険
には津々たる興味を示してくれた。

或るときは、上の従兄は空気銃を持って家を出た。私は
初め夜鳥でもいるのかと思っていたが、彼の目的は他にあ
った。台所を出るとドラム缶が置いてある。その中の残飯
をあさりに集まる鼠を射つのである。私が恐る恐る彼らが
照らす懐中電灯のおぼろな光の中をうしろから覗きこむ
と、大きな鼠が四、五匹もうごめいていた。それに向っ
て、上の従兄は立てつづけに空気銃を射った。確か二匹は

また幹に手をつきつつ、小径とも言えぬ落葉のたまる土
の上を歩く。今度のあの樹には? そう、祈るように予感
していたとおりだった。私はついに発見する、漆黒の夜よ
りも黒く光沢のあるクロカナブンの何とも形容しがたい姿
を。私の心は何ものへともつかぬ歓喜に満ちる。手をのば
して、私にとっては宝石と言ってよいその甲虫を摑む。し
ばらく肢を動かしているその姿を、昆虫マニアのみが知る
おののきと共に眺めやる。それから毒管に入れると、その
黒く固い 天使は、肢をちぢこませ、やがて息絶える。あ
あ、根津山の夜は少しこわかったけれど、私にとってかけ
がえのない憧憬に満ちた天国と呼んでも誇張ではない場所
だったのだ。

しかし、もとより母のそばでも私は多くの時間を過し
た。プリンの作り方を教わって、青山の家でも自分でこし
らえてみたりした。ブリンの上にかかった濃い茶褐色のカ
ラメルは、砂糖水をフライパンで焦がして作るのだ。

或るとき、私が母の部屋にいると、彼女はいきなり、
「男の子というものは、或る年齢になると、朝、パンツが
汚れていることがあります」

と言いだした。私は中学の二年頃で、すでにオナニイを
覚えていた。それで非常な羞恥を感じつつ、もう知ってい
る旨を答えた。とにかく母は息子に性教育をほどこそうと
したのである。
また或るとき母は、

ートも裏手の梨の木があった農園も、何もかもがむなしく さっぱりと失われていた。ただくろぐろとした焼土がそこ にあり、夕景の薄明りの中に数名の人かげが動いていた。 私は感傷のあまり、次のような稚拙な歌を作った。

防火壁のむなしくのこる焼跡に我は来にけり一年をへ

ひととせ

えにし

防火壁残りてみたり狂人の住みし焼跡に日は暮れんと

ゆふされば狂院の跡に人をりて火をたけるこそあはれ

なりけれ
このままでいたならば、私と根津山との関係はおそらく
絶えていたにちがいない。

しかし、この世には縁というものがあることを、近ごろ
私は感ずるようになった。

昭和二十年四月、父は山形県の実妹の嫁いでいる農家へ
疎開する前、母を家へ戻すことを許した。なにぶん青山の
病院も閉鎖され使用人とていなくなってしまったし、新し
く女中を捜せる時代ではなかったからだ。婆やはとうに死
亡していた。

やがて青山の家も焼け、母と妹もまた父の疎開先に世話
を受ける身となった。しかし、やがて敗戦となると、母は
父の反対を押しきって、ほとんど灰燼と化した東京へ戻っ
て行った。父は実生活には甚だ不器用だったが、母は父に
はない現世の実行力を有していた。ほどもなく母は、西荻

の美智子が赤子の絵を送ってきた。父は相好を崩して喜

「美智子は絵がうまい。実にうまい」 と、何遍も感に堪えたような声を出したことを覚えてい

る。

父が上京して代田の家で暮すようになってから、私が帰
省してみると、茂一はもうちょこちょこ走るようになって
いた。

一方、母は孫をさして可愛がろうともしなかった。なに
よりも邪魔になるし、また廊下から庭に転落したりする危
険もあるので、一本の柱に紐で茂一をしばり、ほっておい
たようだ。父が帰京するとき、大石田で父の世話をしてく
れた板垣さんが送ってきたが、幼な子が柱にくくられてぐ
るぐるまわっているので、茂一のことを「山羊さん」と呼
んだそうだ。

私が休暇でこの家へ帰ったときは、茂一はもうかなり大
きくなっていた。弟の章二も生れていたかも知れない。

或る日、幼な子の茂一は廊下を走っていて、つるりと.
って転んで頭を打った。そのときの父の激怒ぶりは異常な
ものであった。
「大体、廊下にニスなんか塗ろから、ぼったん(茂一のこ
と)がころぶんだ!」

それから、一家しゅうの大人を総動員して、廊下のニス を砂をかけ水で洗い流させた。私も懸命に聞下をこすった

いたのだ。 それからまた、かなりの歳月が流れた。

私は慶応病院精神科の助手となり、結婚したのちも、し
ばらくのあいだ代田から移った新宿大京町の兄の医院に居
候していた。だが、昭和三十五年に出版した「どくとるマ
ンボウ航海記」が思いがけず売れたので、自分の家を求め
ることにした。

妻と一緒に、あちこちの土地や建売りの家を見てまわっ
た。父と同様世事にうとい私も、このとき「物件」という
言葉を初めて覚えたものだ。とどのつまり、「航海記」を
担当してくれた中央公論社の宮脇俊三さんが、「わたしの
家の隣りに空地がありますよ」と言ってくれ、結局そこに
決めた。

初め建てた家は応接間もなかった。妻と二人だけの暮し
であったから、本を置くため一応の広さの家だったにもか
かわらず、私たちは食堂を使わず、小さな四畳半の間の垣
達の上で食事をしたりした。初めは庭に芝生も植えなかっ
たので、春の風が吹くと、こまかい土埃が家の中に侵入し
てきて弱ったことを覚えている。

すぐに女の子が生れた。彼女がちょこちょこと歩くよう
になった頃、私はその小さな手をとってときどき付近を散
歩した。その世田谷松原の地には、当時まだいくらか田畑
が残っていた。
そして、大通りに沿って海ヶ丘中学校や北沢警察署など

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