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その娘も結婚し、昨年には孫を産んだ。だが、そんなこ とはこの話とは無関係のことだ。

羽根木公園が根津山の跡であることだけではなく、それ
よりも距離があるが、遠からぬ場所に昔の青山脳病院本院
の跡があったのだ。戦争末期、東京都の強制買いとりで、
それは松沢病院の分院となっていた。その場所は散歩道に
ふさわしくないが、車で幾度かその前を通ったことがあ
る。初め新宿の兄の家からこの地に移ってきたときには、
なぜとなくかなりの田舎に来たように感じたものだが、そ
の後はマンションがずらりと並び、高級住宅地のおもかげ
を呈してきた。新築された松沢病院の分院、梅ヶ丘病院も
なかなかに立派な建物である。

しかし、私はその中に一歩もはいったことがない。兄に
よると、父の歌碑も建っているそうだが。けれども私は、
その内部を訪れたりすると、懐しさよりより多くの悲哀の
念を抱くのではないかと危惧して、見にゆく気が起らない
のだ。

それにしても、初めはそれと気づかずに自分の家を作っ
たすぐそばに、昔の根津山の跡や青山脳病院本院の跡があ
ることは、やはりなんらかの縁と言ってよいのではあるま
いか。

(了)

付記。

この短篇は「新潮」昭和六十三年五月号に載せた「神 河内」につづく連作となるものです。

募集

対象/自作未発表のファンタジー小説(日本語で書かれたもの)。 応募資格/プロ、アマ不問

を添付してください。(ワープロ原稿も可) 賞と賞品/大賞(1点).......賞金500万円(および記念品)

を各250万円とします。 原稿送付先/〒162 東京都新宿区矢来町

内「日本ファンタジーノベル大賞」係 選考委員/荒俣 宏(作家)、安野光雅(画家・絵本作家)、

澄子(作家・詩人)〈50音順> 出版/大賞受賞作品は新潮社より単行本として刊行されます。 精権利/受賞作品の著作権および、これから派生する全ての権利

者に帰属します。 その他/受賞作品の、他の文学賞への応募は認めません。応募原稿

FANTASY NOVEL

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わたくし

今年の夏は、私は七年ぶりに狂人の父に逢いに行った。その時、母から「去
年の夏、宏ちゃんの三十三回忌をした。」と聞いた。宏ちゃん、というのは私
の母の次弟で、私には叔父にあたる人であるが、その人のことを、私は「宏之
兄ちゃん。」と呼びながら育った。それはまだ、人が死者を弔うのに野辺の三
昧場で送るという敬虔さの中に生きていたころのことである。

宏之叔父は昭和三十二年五月二十二日の午前、古い納屋の梁に粗細を掛けて
自殺した。享年二十二歳。私が小学六年生の時のことだった。平生は何の変も
ない村の中に、戦慄が走った。後年読んだゲーテの「ファウスト」の中に「戦

は人間のもっとも深い精神の部分だ。」という言葉が記されていたが、その
時はじめて、私はその「深い部分」の快楽にふれた。長い時間がその当時の狂
瀾を沈めてくれた今、宏之の死が私に一つの静謐をもたらしてくれたと思わな
いわけには行かない。この死の光は、その後の私の生の有り様を照らし出す透
明な鏡として作用して来た。あるいはそれは呪われた天の恵みであったかも知
れない。すでに五十に近い独身者の私の中にはこのごろ確実に死の木が成長し

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紙を投函していたポストは円筒型であったから、どこか町
場のポストだったのだろう。恐らくは意外なところで姿を
見たので記憶に残ったに違いない。帽子を目深にかぶるの
は宏之の死ぬまでつづいた癖だったが、田舎の中学生がど
こへ手紙を出していたのか。

母の実家は村の中辻の角にあった。だから郵便ポストが
壁に取り付けてあったりもしたのだが、母が「歩いて嫁に
来た。」と言う道を通に歩いて、遊びに行くと、いつも家
の中はひっそりしていた。無論、人が声高に話しているこ
ともあるのだが、併し家の中に聞こえるその静けさは、何
かある異様な烈しさでもあり、たとえて言えば炉の中で真
ッ赤に焼けた犬釘を素手でつかんだまま、黙ってじっと堪
えているような、酷烈な静寂が柱にも壁にも浸み透ってい
た。家は在所では並ぶもののない総得普請である。今日で
はいくら銭を積んでも、も早あのような普請は不可能だろ
う。梅に独特の渋S 黄赤みをおびた木目の輝きが、顔に映
るようだった。西郷戦争の年に生れた曾祖父が一代で築い
たのである。

曾祖父の勇吉は神戸長田の運河沿いの貧民窟に生れ、尋
常小学校四年を卒業すると、飯茶椀に一膳、炭俵一俵を
親から与えられ、「あとはこれでどないなと生きて行き
な。」と言われて、家を出された。勇吉は炭俵を背中に負
うて、鵯越を歩いて越え、途中腹が減ると「背中の炭を喰
いながら。」奥播磨の椙原へ紙漉きの小僧に行った。併

一年後に私が生れ、母は肥立ちが悪かったから、同じ村内
の母の里へ連れて行かれていたのである。
「お母んの乳にお前ら二人がしゃぶりついての、そしたら
雅彦が横目でこないして与一を押し退けようとするんよ、
けど、与一は

ひよどりごえ

かなつけまなこ

けをした。下ノ関へ李鴻章が来たと言って日本国中が騒い
でいるころだった。それから四十年、村の中辻に普請をし
たのは昭和十年冬のことである。その時、「喜びは一生に
一遍でええど。」と総領娘のゆきふに言ったという。ゆき
はその年の夏、宏之を産んだ。

私が物心ついた時分の勇吉は、すでに七十を越え、鍛冶
仕事は止めていた。いつ行っても家の奥の暗がりに黙って
坐っていた。そして異様によく光る夜蜘蛛のような目で、
人のすることを見ていた。それは、その目を見る人を沈黙
させずにはおかない目だった。何かに懲りたことのある人
の狂おしい目だった。自分から人に声を掛けることは絶
無に近く、身じろぎもせず金壺目を据えていた。そして何
か癇に触ることがあると、たとえ相手が三つ子の子供であ
ろうと、情け容赦のない険しい声で、「ド畜生めがッ。」と
言った。恐らく人間は凡て畜生であることを見抜いていた
のだろう。孫あやしをして喜ぶような甘さはカケラもなか
った。私が五つ時分のことである。ポケットから落ちた五
円玉が内庭のたたきの上で、独楽のように廻転しはじめ
た。それを足で踏んで拾い、顔を上げた瞬間、いきなり横
ッ面を張り飛ばされた。私はもんどり打ってたたきの上へ
転げた。「この糞ったれめがッ。」その時の蹟志に燃え立っ
た勇吉の目を今に忘れない。

併し私は母の里へよく行った。昼間は祖母が納屋の出口 に足踏式の縄編機を据えて、組縄をあざなうてい たから、

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