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ジェン

畳まれて入っていた。祖母はそれを「お巳ィ様の袴。」と
言っていた。上便所のねきの朝鮮南天の木が植わっている
あたりに、時折大きなのがめたと横になっていて、夏の夕暮
れにはそいつが稼先の瓢箪の棚に首と尻尾を掛けて、だら
んとぶら下がっていた。祖母はそれを見ると言うのだっ
た。
「ほう、お巳ィ様もええことしよってやが、極楽の余り風
に吹かれて

なお相手が横車を押して来れば、 り鍋の蓋が吹き飛ぶような激しい声でカチ喚いた。 「斬るんやったら斬んなッ、うちは承知せえへんでッ。」

あとは一気呵成に、向 気の強さで押し込めた。なにせ
水屋の抽団を引いた途端、なかから飛び出して来た大きな
鼠を、咄嗟に手でつかみ、床にたたき付けて息の根を止め
た、という反射神経の持ち主である。祖母は「銭。」のこと
を「ジェニ。」あるいは「ジェン。」と言っていた。「金。」
という言葉はつかわなかった。「銭がないんは、首がないん
もおんなじや。」「足を踏まれた人が、踏んだ人に、すんま
へん言いながら生きて行くんが、この世の道理やが。」「こ
のごろハムたらソーセージたら言うもんが出来とうやろ、
人間ほどむごいもんはあらへん、牛でも鶏でもあないなも
んにしてしもて、平気で喰うて行くんやが。」「仏の教えは
毛穴から。」このような物言いは、言う迄もなく、勇吉直
伝のものだったに相違ない。貸した金のことでいざこざが
起こるのは、あらかじめ計算ずくのことだったのだろう。
勇吉は、銀行へ金を借りに行っても相手にされない人で、
併し喉から手が出るほど金を必要としている人の内情を、
銀行の人から内々に聞き出し、ギリギリこれならと思える
手合いには、こちらからそれとなく話を持ち掛け、高利で
金を貸していた。一つの修羅を生きていたのである。どう
かすると貸した金がこげつくのは、火を見るよりも明らか

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ジェニ

醒拾な布

ええ。

たからそうなのか、あるいは自分の父親よりは一枚上手の
人間だったからそうなのかは知れないが、平生の祖母はま
ことに気の大きな人で、人当りも温かく、曾祖父が人から
は毒蜘蛛のごとく忌まれていたのとは深い違いだった。ゆ
きるの日常には、どこかおかしみがあった。新聞を読んで
いる時、鼻の頭にがたかっても、別に追いもしな い ので
ある。「おばあちゃん、顔に蠅がたかっと。」「ほう、ほん
ならあんたヤ叩き持って来て、うちの顔たた いとう。」さ
らには、

効く思て。」と言ったり。一通り口上を聞いた以上、財布 の口を開けなければ、女が廃る、とでも考えたのか。かな りまとまった額の銭を落した時は、「捨てる神あれば、 う神ありや、うちは神さんや。」と言って笑っていた。 誕くよくよするところが丸でないのである。 「信子、ゆッきにあないなとこがあるからこそ、わしは 吉田の家におれるんやど。」

空養子の祖父保雄は、よく私の母にこう言っていた。あ ないなとこ、とは祖母のどこか能天気な気性のことであ る。祖父は姫路師範出の小学校教諭で、家の中のことで、 横合いから何か口を差し挟むたびに、祖母に「あんた、黙 っとりッ。」とどやし付けられていた。戦前の家父長制教 育を刷り込まれて人となりを了えた保雄には、これがいか に屈辱であったか、カチ喚かれるたびに、粉糠三合あった ら、禅養子に行くな、という言葉を深く味わったことだろ う。併し教頭はおろか教務主任にもなれなかったのだか ら、の上がらない男ではあった。そのあたりのことは、 ゆきみはすでによく呑み込んでいた。遠く新婚早々の日に 二人して神戸祇園の伯母さんの家へ行った帰り、夏のかん かん照りの道を歩いて、ようやく神戸駅へたどり着いた。 ゆきみはそこで財布を取り出し、「これで弁当買うて来と う、お茶もな。」と言った。保雄はそれを受け取って買S に行った。ところが持って来たのは弁当二折りだけだった。 「お茶は。」と問うた。「水道の水呑んだらええ思ての。」

の、と言っていたが、ゆき は、牛は牛連れ、馬は馬連 れ、言葉は儚いもんや、と思っていた。ゆきみはそのころ から断るということが出来る女だった。そうでなければ、 金に詰った男や女が立ち代りやって来る銭売りなどという 商いは出来ない。保雄は恐れをなした。併し懲りるという ことを知らない男だから、見兼ねてつい口を出す。すると また烈しい罵声を浴びるのであるが、併しいつ迄経っても ゆきるとの間隔をさだめることが出来ず、まさに性懲りも なく、同じそしりを受けていた。つまり保雄はある決意が あってゆきのところへ来たわけではなく、仲人口に乗っ た時すでに、ゆきるなしには生きて行けない男になってい たのである。そういう男だからこそ、乗った、ということ だろう。実際、私の見た祖父はどこか仁田山な人だった。 よくだらんと畳の上に寝そべっていた。曾祖父や祖母がそ んな恰好でいるのはただの一遍も見たことがなかったが、 祖父はそういう姿勢の中に慰安を見出していたのだろう。 「与一、すまんけど足の裏踏んでくれんこ。」

併し足の裏ほど踏みにくいものはないのだった。夏が来 ると、「暑いの、暑いの。」と顔を見るたびに言った。暑い 時に暑いと感じるのは誰もみな同じだが、祖父は口をつぐ むということを知らないのである。併しそれでも田舎の小 学校の先生であるから、外へ出れば「先生。」とたてまつ られ、ただ酒にありつくことも多く、酔うて帰宅するた び、ゆきに、

くっていることもあった。つまり、そういう腑抜けの墜言
の中に自分の生の根拠を見出したい、魂が外にめくれた人
が、蜘蛛のような目で沈黙している曾祖父や、余儀ない事
情にせかれて金を借りに行った私の母に「信子

七年のスペイン風邪で「持って行かれた。」あとへ、市 の河原で腰まで水に浸かってボテ振りをしていた女を「家 へ入れた。」のである。色の悪い痩せ犬が笑ったような顔 で、片目が白濁、新聞はおろか自分の名前すら読めないほ どの文盲であったが、勇吉には、朝から晩まで水に浸かっ ている砂採り人足ならば子宮が冷え切っていて二腹の子が 出来る気づかいがいらない、という計算があって後添えに したのである。私の母なども自分に嫁入り話が起こった 時、いつ迄も返事を渋っていると、勇吉に「理想を一つも 二つも落として生きな、ほんなら道が開ける。」と言われ て、「あんたのお父さんのとこへ来た。」と言っていたか ら、ことさら容色の貧相な女を選んで後妻にしたのも、同 じ理性の働きだろう。併しそうして後妻に入ったものの、 むめは実際には下働きの女中に来たのと同じざまであっ た。と言うより、それ以上の働きは出来なかったのである が、三十を過ぎて河原のボテ振りになる迄の、人から見捨 てられて来たゆくたてを思えば、勇吉が人の身の破滅を冷 視できるほどに「恐ろしい。」人であるにしても、人足仲 間のごとく「おまはん目ェどないしたんや。」と無遠慮に 験がらせを口にするような男ではないことが、おいおい分 って来ると、むめは女の身として一ト かけらの救いを感じ た。容貌が醜く、頭の働きが一つ足りないからこそ、後妻 にもらわれて来たのである。勇吉はそういう思慮をする男 だった。ゆき も白濁した目のこ をただ無意味にたずね

軽 をたたき

つと女の尻にさわったりもするの
で、その男のまわりには絶えずにぎやかな笑い声が立って
いたが、ある日、むめは不意に尻をなでられ驚いた。男に
尻をなでられたのは初めてのことだったし、それ迄は考え
る迄もなく、うちはまだ子供や、と思っていた。むめの顔
色を見て、誰かが「あれあれ、この子、色気出してもて。」
と言った。女たちがどっと笑った。その笑い声にむめは引
き裂かれたが、併しそれをきっかけに、いつかまた魚屋が
尻をなでてくれるのではないか、というかすかな期待が生
れた。魚屋は相変らず売れ残ったいかないや天舗を狐の洞
へ投げ込んでやっていた。むめはその姿を戴すすきの間に
隠れて見ていた。ある朝早く雨戸を繰ると、庭にきれいな
花嫁さんが立っていた。

そのころ飾磨町に紡績工場が出来たので、むめはそこの
女工に行った。併し暮しは相変らずひどかった。人のはき
古した下駄を拾ってはそれをきれいに洗い、鼻緒を取って
おいて、自分の下駄の鼻緒が切れた時にすげ替えて使う、
というような生活だった。字が読めず、容色が貧相なため
に、人からあなどりを受けることも始終ある。むめは絶え
ず「誰どに背中なでて欲しい。」と感じていた。併しそう
してくれる人は誰もいなかった。魚売りが「も一遍。」尻
をなでてくれるということもなかった。紡績女工としての
むめに支払われる給金は薄い。その給金をもらうたびに、

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