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し韓国語で話しかけてきてさあ」 「ああ......」

在日韓国人が外国に行ったときに体験しなければならな
いその類いの話は、俊之も何度か耳にしたことがあった。
「ずっと日本に住んでたから、韓国語は話せないんだっ
て、俺がその当時のつたない英語で説明してもさ、何度も
何度も『どうして話せないんだ?』って訊くんだよねえ」
「うーん......」
「どうしてって訊かれたって困るよなあ?」
「うん」

そう答えながら俊之は、ヒロちゃんも長いことーきっ
とアメリカへ行ったあとでも、俊之と同じようにあの胸を
チリリとよぎっていく矢印みたいな気持ちを感じ続けてい
たのかも知れないなあ、などと考えていた。
「でも実際さ、たとえばトシにしてみてもアメリカかどっ
か行ってさ、いちばん困るのは Where are you from?っ
て訊かれたときだぜ」
「どうして。アイム・フロム・ジャパン、じゃいけない

「や、そこでアイム・フロム・ジャパンって答えたら、他 の奴らは『あー、コイツは日本人なんだな』って認識をす るわけよ」 「あ、そうか... じゃあ、アイム・フロム・ジャパン・ パット・アイム・ア・コリアン。これでいいわけ?」

あせ

を吹きかえした

Why? その目が「怖かった」のだと、 そのとき彼は言ったの だ。

それはたぶん、さっきヒロちゃんから聞いた女の子の話
から連想して思い出したことにすぎなかった。

ーどうしてって訊かれたって困るよなあ?
ヒロちゃんはそう言った。そう、どうしてって訊かれた
って困るのだ。俊之もそう思ったから、スンジャの友だち
のことを思い出しただけなのだ。

それなのに今、俊之の中にはつながりそうでつながらな
い何かがあって、それは俊之をひどく焦らせた。
「ま、でもそーゆー立場が便利だったってこともあるよ」

ヒロちゃんが言った。
「え......、どういう意味......」

訊き返した俊之だが、実は上の空だった。その焦燥感
は、誰かに伝えなくてはならないことがあるのに伝える内
容を忘れてしまったときにも似ていた。何だっけ、何だっ
け...
「アメリカ人って人の悪口好きだからさあ、よく集まって
ひとつのグループの悪口言いあったりするんだよ......」
「うん」

頭の半分でヒロちゃんの話を聞き相槌を打ちながら、も う半分で俊之は「何だっけ......」という自問を繰り返して

た。もうちょっとで手が届きそうな「答」に、なかなか触
れることができない。
「で、日本人の悪口になるとさ、俺は日本で育ったけどオ
リジナリイ、コリアンだから......、なんつって、やっば参
加できちゃうわけ」

そう言ってヒロちゃんは笑った。俊之も笑いながら「あ、
ひでーなソレ」と言ったが、頭の中は「見つけたいもの」
のことでいっぱいだった。
「ねえヒロちゃん」

もどかしさのはけ口が見出せないまま、俊之は口を開い
た。ヒロちゃんに訊きたいことがたくさんあるような気が
するのに、何を訊けばいいのかははっきりとは判らないの
だった。
「んー?」
ヒロちゃんは呑気に答える。
そのヒロちゃんの顔を見たら、さっき最初にヒロちゃん
がこの部屋に入ってきたときに感じたのよりもっと強い
かしさみたいな気持ちを俊之は感じて、ふと、芳佳のこと
を話したいような気になる。
「ねえヒロちゃん」

俊之はもう一度言った。
「だから何だよ」
ヒロちゃんは顔をくしゃっとさせて笑いながら俊之を見

た。

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あがってくる。俊は頭を張って、 その焦りのよ を振り払おうとする。

アナタの舌はもう日本人の舌になっちゃってるのよ

いちばん困るのは Where are you from? って訊か
れたときだぜ

|怖かったっすょオ......。
耳の奥の方で再び声がさざめいた。
階下から母親が夕食だと呼んでいる声が聞こえてくる。
俊之は苛々しながらまた頭を振った。
「トシくーん、もーう、何度も呼ばせないでよー」
俊之は重い腰をやっとあげる。
そのとき急に、以前に見た手紙に書かれた一行が、妙に
鮮明に俊之の脳裏に浮かんだ。俊之は部屋のドアのノブに
かけた手を止めた。

ーほんとうの新井くんを見せてほしかった......。
俊之はノブを握りしめたまま突っ立った。
それは、大学に入ったばかりのころに別れてしまった昔
の彼女から、別れたときに届いた長い手紙の中の一行だっ
た。

彼女と別れてしまったのにはこれという原因があったわ
けではなかった。どちらかといえば俊之の方の心が離れて
しまい、手紙が届いたときも特に気にせず、そのへんに放

正月、旧盆、法事などは、俊之の家では親戚中が集まっ て昔からのしきたりで祝う。酒、ビール、ジュースがふん だんに用意されて、ご先祖にいったん供えたそれらの飲み ものを全部一緒に大きな椀にあけ、集まった人々はその大 腕の中のものをコッブにすくって飲む。それが俊之にとっ ての「お正月の飲みもの」であった。

彼女の言った「お屠蘇していく」というのが、「家でお
屠蘇を飲む」ことなのだとやっと気付いた俊之は、内心ひ

く焦った。俊之はお屠蘇の飲み方を知らない。行事のも
のだし、あの小さな盃でそれを飲むという行為の中にも、
誰でもが知っているような作法があるかも知れないと考え
たのだった。

ごく短い時間のあいだにそれらのことをめまぐるしく考
えた俊之は、彼女の誘いを断った。

―え、でも......。ママも新井くん呼んでらっしゃいっ
て言って待ってるし......。

玄関口に佇んだまま彼女はそんなことを言ったが、「マ
マ」の前ではよけいにヤバいと俊之は思い、頑強に断っ
た。そうして、もう彼女には何も言わせまいとするかのよ
うに、さっさと背を向けてすたすた歩きはじめてしまった
のだった。

俊之はビビっていただけだったのだが、彼女はそのあと
何回も「怒ってるの?」と訊いた。そのときの彼女は、急
に鼻面をはたかれた仔犬みたいな表情をしていた。そう

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