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日本の高校生だったころに俊之やジョンスたちがさかんに
話していたのと感じが似ているなあ、などと俊之はふたり
の話を聞きながら思う。

ただあのころ彼はーというより、ついさっき、実際に
会って話をするまで彼は俊之の中では「信川」だったの
に、今はすっかり「ジョンス」になってしまっている。

ひとしきりふたりで話しこんだあと、ぼんやりしてしま
っている俊之に気付いたスンジャがちょっと気を遣うよう
に俊之に話しかけた。けれど俊之がぼんやりしてしまって
いたのは別にふたりの会話に参加できないからというわけ
ではなかった。俊之は、彼らの話を聞きながら、考えてい
たのだった。

もっと、もっ
もどかしいほどにそのことばだけが出てきて、それは昨
日からのあの落ち着かな S焦燥感とは全然違った感じで俊
之を焦らせた。
「ねえ、トシちゃんったら」
「あ、うん、ゴメン」
「このコもさ、トシちゃんとこと一緒でお姉さん三人の末
っ子なのよ」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんすよオ、親が『男の子が生まれるまで』ってガ
ンバっちゃったってパターンで......」
「あ、ソレはウチもそう」

...。

にやっとしながら俊之は言った。するとジョンスは急に
何かに気付いたような顔になった。
「あれ......、新井さんも僑胞なんすかあ?」

知らなかったのか、と一瞬ちらりととまどってから、俊
之は「そうだよ」と答える。
「え、ゼーンゼン知らなかったー」
「そうなんだ。俺は行ったこととかないんだけどね」

ジョンスは今度は俊之の方に顔を向けた。
「結構根性いりますよ、むこうで暮らすのは......」

するとスンジャが茶々を入れるような感じで口を挟ん
だ。
「あんた、なんかすンごいエラソーじゃない?」
「あ、ねーどうしてすぐそーゆーふうに言うの!」

そうしてまたふたりのやりとりがはじまる。俊之はそん
なふたりを見ながら、心の中で繰り返していた。

もっと、もっと....。
そのあとに続くことばが判らない。

ス ンジャがいきなり韓国語で何か言った。ちょっとびっ
くりして俊之はスンジャ の方を見る。スンジャも今気付い
たという顔で、「あ」と言った。ジョンスにつられたらし
い。

ジョンスがさっきと同じようなしたり顔になって言う。
「な。ついウリマルが出るだろ」
「え、ウリマルって何?」

あせ

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ンスがさっきとしようなしたり顔になって言う。

マルち山出るだろ」

「ねえ一

J

しゃあさあ 俊之は言いながら、窓際のナプキン立てから紙ナプキン を一枚引き抜いた。それからスンジャに「書くものある?」 と訊いて、バッグの中からボールペンを出してくれたスン ジャからそれを受け取る。 「これって、何て読むの?」

紙ナプキンはへなへなして書きにくかったが、俊之はそ の上にボールペンで大きく書いた。

朴俊成。

ス ンジャとジョンスが、また同時に答えてくれる。 「パク・ジュンソン」

それからジョンスは、俊之の手からボールペンを取る と、俊之の書いた三文字の漢字の下に、俊之には読めない 記号のような字を三つ書いた。 「ハングルでは、こう」 「へえ」

おもしろ奇語辞典 萩谷朴

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「やっぱ信川ってカンジもするよなあ......」

第一京浜を真っ直ぐに北上する。だんだんに陽射しが曖 昧な色になってくる。カセットデッキにテーブを突っこん だ俊之は、流れはじめた曲にあわせて鼻歌を歌いはじめ

た。

家に帰った俊之は「ただいまーっ」と言って玄関にナイ
キのローカットを脱ぎ散らかすと、階段を二段ぬかしで昇
っていった。古い家なので振動が居間の方まで伝わったの
だろう、母が食堂のドアを開けてびっくりした顔を出す。
「お帰り......」

いったん自分の部屋に入った俊之は、再びドスドスと足
音を立ててまだ階段のところに佇んでいる母の前にあっと
いう間に戻ってきた。
「何よ......」

怪訝そうな顔で母が言う。
「や、ソージキソージキ」
俊之は歌うようにそう言って、玄関脇の戸棚の中から掃
除機を取り出した。
「あーら、めずらしいこともあるもんね」

自分の前を行ったり戻ったりしている息子を呆れたよう
に見ながら、母は皮肉っぽく言った。
「うん、ホラあんま埃だらけだとノド悪くすっからさあ」
いつも母が言うことばを真似て俊之がそう言うと、母は

言われ慣れたことなに笑顔頭いた改之は、

YJ」をれたよう に見ながら、は皮肉っぽく言った。

とき出した。

今度は掃除機と一緒に部屋に戻った俊之は、

けっ放しにしてあったエアコンを切って、カーテンと
窓を勢いよく開け放った。生ぬるい風がぶわっと部屋の中
に押し寄せる。夏の匂いがした。これから、ほんとうの夏
がはじまるのだと思った。

部屋に掃除機をかけながら、俊之はずっと芳佳のことを
考えていた。猛烈に芳佳を抱きたかった。
「芳佳」

ひとりの部屋の中で言ってみた。掃除機をかけながら女
の名前を呼んでいるという自分の姿が相当間抜けなものの
ように思えて、俊之は急に恥ずかしくなって自分の頬を乱
暴にこすった。
「あーッ、もうどうでもいいッ、なんでもいいッ」
掃除機の立てる轟音にまぎらすように、俊之は叫んでみ

消え失せたわけではない。 それでも、 どうでもいい、なん でもいいから、俊之は芳佳に会いたいのだった。

部屋の掃除を終えると、俊之はベッドの下からスヌー
ーを引きずり出した。おどけた顔のスヌーピーの鼻面をな
でて、俊之は受話器をあげる。

発信音を確認してから、俊之は脳味噌のシワに刻みこま
れている番号をダイアルした。三回のコール音のあとで、
あの、俊之をいつもいい気持ちにさせてくれる声が聞こえ
てくる。
「新井ですけど」
「トシ?」

俊之の好きな無防備な顔が頭の中に甦るような声で、彼 女は言った。

る。

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