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を改められた。この家の外孫に、すでにお鉄を名乗る娘が

たようで、祝宴の席上、二人の将来には、最上吉の卦が出 ていると上機嫌であったが、当るも

実父、元立は、もともと信州・松本の農家の六男、若く
して江戸に出て医を学んだが、生来、飾り気がなく、万事
に大まかである。

それが義父、馬琴になると、江戸は深川の生れ。千石の
旗本の用人の三男だが、武家の出という気位が高く、なに
かにつけて堅苦しい。見合いの席の宗伯が折目正しく見え
たのも、この家の子なればこそと思い当る。

武家奉公もすませたお路だが、奉公は奉公。医師の妻と
なっても鹿爪らしく暮らすとあっては、次第に、のどかだ
った塗師町の家が懐かしくなる。

実家から届けられた何ということもない手紙も、義父に
告げなければ、白い眼で見られる。それはまだしも、訪ね
て来た実父が普段着であったの、羽織も着ないでのと疎ま
れ、母は母で、義母と話しこんで泊まってしまうのを迷惑
がられては、お路の心も硬くなる。

たしかにこの家では、挨拶となれば、それが隣家であろ
うとも礼服を着る。まして他人の家に泊まるなどというこ
とは、まずないといっていいだろう。

土岐村の家が素朴なら、この家は謹直。くだけていえ
ば、おっとりとしんねり、家風の開きの大きさに、当惑が
深まる。

それに加えての当惑は、夫の思いのほかの病身であっ
た。見合いの席で感した脾弱さは、見当はずれでなく、そ
れも相当な脾弱さである。

てきそん

久方ぶりに実家へ出かける。この正月売出しの父の著作 は、「朝夷巡時記」ほか四種”ことに「傾城水滸伝」は大 評判との噂も耳にして、目出度い新年ではあったが、今 は、その作者を父と呼びながら、その流儀に当惑するわが 身が不思議でならない。 月が変って、二月の二十二日。 早朝から虫気づいたぉ路は、昼前、やすやすと男の子を 産み落とした。母子ともに安奏。

義父の意を受けた夫は、恵方に当る玄関の砂利の下を深 く掘って、赤子の胞と徳利二本に入れた産湯を埋めた。

二十八日のお七夜には、親類を招いて祝膳を供したが、
義父は、嫡孫に太郎と命名し、謹厳な面持をくずす。

三月十三日、お路、枕直し。産後二十一日目の床上げと
なったが、母となったお路の乳は、産婆の孫に分けてやる
ほど豊かである。

二十八日、太郎は祖母に抱かれ、錦の袋に入れた守り刀
は宗伯の姉のお咲が捧げて、神田明神、妻恋稲荷へお宮参
り。とどこおりなく終って、お路は、名実ともに滝沢家の
内室となったが、目出度さはそこまでであった。

四月に入って、夫、宗伯が烈しい下痢に見舞われる。
土岐村の父も兄も駈けつけて、薬を処方したが効は見え
ず、二人まで医師を変えて転薬したが、はかばかしくな
い。誰の診立ても大病である。
義父は病人が気になって筆が滞り、風邪を引く。義母も

まくらな

つまこい

ないしつ

とうら

ともに、いよいよ間が立つ。

見かねた土岐村では、仲たがいは棚上げにして、まずは
下女を世話した。どうあろうともお路を助けようの気遣い
からだが、当のお路の見通しは明るくならない。

一年前には、二度と戻らぬつもりの嫁入りだったが、娘
心の覚悟のほどなど脆いものである。お路の心は、太郎を
つれてこの家を去ることが出来ぬものかにかたむく。

だが、甲羅経た義父は、お路の顔色を読んで里帰りを持
ちかけた。

五、六日、実家へ戻って保務してはどうか。ただし、お
前は宗伯の妻であり、滝沢太郎の母であることを忘れる
な。妻たる者、母たる者は、と人の道を説く義父ではあっ
たが、お路の積もる愁いは、やすやすと解ける体のもので
はない。

八月。実家に戻って六日。お路と生後半年の太郎を囲ん
での評定も、落ちつくところは、義父の説くところと変わ
らない。
この太郎の将来のために、すべてを耐えねばならぬので

ひょうしよう

ある。

今は、滝沢の義父母が恨めしく思えようが、鬼でもある まい、蛇でもあるまい。やがては歩き出す太郎を案じて、 義父は庭の池を埋めたというではないか。太郎を思うと と、お路に劣らない筈である。 それならば、嫁であり妻であるというよりも、滝沢家の

下町の気を吸って育った娘である。

お路の受け取った手紙の中味も、家内に披露するには及 ばぬ些細な事柄であっ

う。 しかし、陰に陽にお路に向けられる不信の眼に気付き、 この家の掟を察した時、お路は当惑し、やがては反撥を覚 えたに違いない。 「日記」の中の一行にすぎないが、これらを積み重ねてゆ けば、家風の開きによる摩擦が、おのずと推測される。

要するに「馬琴日記」は、的のしぼりようによって、
様々なことの成り行きを捕らえ得る一貫した日記である。

しかも、「日記」を補う「家記」「雑記」から「書簡」に
いたるまでの手稿も遺され、やがて「日記」は、お路自身
の記す「路女日記」に受けつがれてゆく。

ならば、二分金の行方という小さな謎ではあるが、真実
を知る方路に的をしぼって、あらためて「日記」と「手
稿」を見直してゆくならば、あるいは、その謎の解けるこ
ともあるのではないか。

父にすれば、嫁の挙動は軽率であり「一体、人

二日記

とくらい

「馬琴日記」は、克明である。それも、異様なまでの克明 さである。

まずは、日記の冒頭に付きものの、天候の記事から詳細

タブ しんぞう

夕七時(職)

しんとん

「今朝四時(汗)どろ 伊勢松坂 旅人 小津新蔵 来
るみやげ代金百匹(一千文)持参客座敷にて
子ならびに宗伯対面長談数刻蒲焼とりよせ昼飯
これを振舞う供の小者にも同断......

帰去」
また、書簡の往来から、使S のもたらす手簡についても
詳しい。

「夕七半時 (坪戦) 麹町三宅内渡辺登 (畢山)より使
札かねて頼みおき候,水滸伝全書,新渡本(舶来
書)四疾これを見せらる代金三両のよし望みも
これなく候わば本直ちに返し候や申し来る

すなわち返書に二両までになり候わば買い取り
申すべき趣もし二両に引け申さず候わば今少々は
上り候ともよろしく取りはからいくれ候よう申し
遭わし右二状はそのまま止めおく」
と、かねてから欲しかった書籍に添えての華山の手間、
対して値引きの条件を示した返簡、双方の内容が書きこま

れる。

だいまる。

そして「馬琴日記」の核心である家内の動静に移る。 その日は、馬琴、宗伯、お路、太郎の四人が、大伝馬町 の大丸へ買物に行き、堺町に廻って芝居を見物したのだ が、

「今夜おそく帰宅につきお百閒症に障り宗伯の

しよう

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