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「無愛想だなー。」 「今更今更。」

クーラーを付けている筈なのに智恵は薄く汗をかいて、
尚子の隣に腰を下ろした。
「暑いねー。」
「踊るから回るんだよ、アホ。ベランダ出ようか。」
「うんうん。」

強い風にじりじりと焦がれて、智恵は返事を立て続けに
した。
「タオル飛ばさないように気を付けなよ。」

腰を上げ、タオルを持ったまま出ようとすると、尚子が
振り向いていった。
「あ、うん。」

外では風が唸っている。
尚子のふとした言葉を水に飢えた砂地のように全身で浴
びようとしている自分に智恵は絶句し、ありがとう、を言
い損なった、と思った。

三階のベランダでは、やしの硬い葉が足元でばらばらと
音を立て、真下にある道路は街灯にだけ照らされて、妙に
静かだった。空は只黒く果ても見えずに、風が叫びながら
荒れ狂っている。

智恵は泣き始める直前の子供のように喉にそろそろと息
を通した。
「凄いね。」
「うん。」

早い歩調を追い掛けながら、智恵は必要な、
を落ち うな程ホームぎりぎりで見ている幸二の背中に、
ぶつかって自分は何をしたいのだろう、と考えた。
「あ、ごめん。」

急に立ち止まった孝二にかろうじて勢いを抑えてぶつか
ると、智恵はそう言ったが、孝二はむっつりと下を見たま
ま呟いた。
「何すんだよ馬鹿。」

その言葉を聞くと、智恵は心臓がずくりといったのが分
かった。心臓が突かれるとはこのことか、と智恵はその態
度に息を詰めたが、あるいはそれは只孝二のシャツ越しの
体温が嬉しいだけだったからなのかもしれない。自分の姿
を見ながら、これは事実なのだろうかそれとも酔狂かその
ふりの陶酔なのかと考えたが、妙に冷静なそんな思考も相
手の顔を見れば痺れてしまう。その痺れも心地よい。
「昔ねえ。」

ゴオゴオと吠える風に揺さぶられて、海を見たまま智恵
は楽しげに声を上げた。

凄く好きな人がいたんだけどその人彼女がいてさ。そう
つい数ヵ月前。
「何?」

風にかっさらわれるようにして飛んでいく声に尚子が振
り向いた。
「台風が来た時隣の家の屋根がばりばり飛んできてさ。」

ずだった。それでも、郁がたまにしか尚樹と顔を合わせな S智恵につらく当たり、尚樹に感情をぶつけるのは只智恵 と尚樹がコンピューターや物理の話で盛り上がるのが、気 にくわなかったのだろう。尚子はそう言っているのであ

る。

「じゃ何だよ。」
「好きな人の側に他人がいるとその側にいる奴が憎らしい
んだってば。話が合うのが、嫌なんじゃなくて、話してる
のが、嫌なんだよ。」

そこに智恵がいるから、嫌なのである。智恵はその感情
を口に出せるだけの確信が自分の中にあるのを忘れ、せせ
ら笑うように声を出した。
「なー......それは!......。」
尚子は口が文字通りふさがらず、言葉を探している。
遠く孝二の住む街から離れていると、意識すると、智恵
は孝二と他人が話している情景をふいに想像し、夜の闇の
深さにじわじわと胃の方から熱が這い上がってくるのを感
した。
まあ、そんなことはよくあることさ。
烈風に智恵は熱を吐き出したいような気分になった。
「それにお兄さんだけじゃなくて、尚と私がこうやって喋
るのもあんまり楽しくないんだって。」

尚子は尚樹の妹であり、血の繋がる家族であり、ブレー
ンである。
「分からんね。」

そうは見えないな 目か冷たいよ。」 「そうかな。」

嫌わないでよ。側にいてよ。昔好きな人がいたんだけれ
ど、その人は彼女がいてね。その彼女と折り合いが悪くな
ると、それを私のせいだと思ったらしいんだ。郁がそう思
ったのと同じように。
何だよ、それは。ヒドイ話しだな。
智恵は無意識に自分で言葉を繰り返した。
「ああひどい、落ち着かなきゃいけない、そうそうそう、
こういう時こそ、冷静に演技する位じゃなくちゃ、だめよ
ねー、だめよねー。だめだめだめ。ひどいなぁ。」

うっすらと笑いながら布団の中で体を硬く硬くして、智
恵はきりきりという音をどこかで聞いた気がしたが、それ
は智恵自身の歯ぎしりの音であった。
「孝二孝二孝二小林孝二。」

奇妙なを付けて、真夜中の闇の中で智恵は無意味な言
葉を繰り返した。喋り過ぎた、もっと笑おう、そう思いな
がら包丁の先を偶然に突きつけられてぎくりとした時と同
じ切羽詰まった怒りが胸の底で渦を巻き、頭の芯を痺れさ
せているのが自分でもよく分かった。
「そうよー、そうよー、落ち着くのよー。よーしよーし。」

念仏か何かのように低い声で言っているつもりが、その
うち力がこもって来る。呟いていたつもりが、一度は親が
驚いて部屋に顔を出した。

は呻いた。

ああ、あああ、と雄叫びを心の中でわめきながら、こん
なことに又ならないうちにこのままどこかへ自分を消して
しまいたいと半ば幻覚を見るように願い、そう願いなが
ら、又それを眺めて、弱い、弱い、と反省しながら、泣い
た。こんなに弱くては人に迷惑を掛ける。そう泣きながら
歯を食い縛ると、歯は又きりきりと音をたてた。誰か、と
言いかけて助けて欲しい、とは続けられなかった。
「気持ち悪くなった。」

孝二はその日もろくろく返事もしなかった。何とか言葉
を引き出そうとして、智恵はそう意味の無い言葉を口に出
した。
「死ねば? それで彼氏にでも葬式に来てもらって、泣い
てもらえば?」

智恵はそのおざなりそのものの言葉を聞くと腕に力が入
り、震えが走った。その震えが、怒りなのか、悲しみによ
る脱力なのか、微熱なのか、智恵はよく分からなかった。
「彼氏なんかいないもん。」

やっとのことで低い声を出さないようにして言うと、孝
二は足元の空き缶をわざわざ拾ってごみ箱に放り込んだ。
この間新聞に、駅のホームのごみ箱に殺人犯の包丁があっ
たって載ってたな。智恵は血が上って痺れた頭でそんなこ
とを思い出した。
「つくれば?」
孝二は振り返らなかった。智恵は笑おうとし、笑顔のま

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