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だし

たんちの

きちにち

て、馬琴の手に余ることにもなるのだが、それでいて神田
祭ともなれば、江戸中の山車が集り、ここから練り始める
飯田町へ、お百、宗伯、お路、太郎、それに下女のかね
が、そろって見物に出かけている。

「帰宅後お百手伝い路今日大丸より持参の
反物 これを裁つ吉日なればなり」
ちなみにこの日の天候は、

「天明より薄雲 四時 (杵鋼) ごろより快晴」
と記されてある。
文政十三年、天保元年(☆湖・一八三〇)。
この年の「日記」は行方が不明であるが、閏二月十八日
に、宗伯の長女、次が生まれているから、お路は、二児の
母となっている。
天保二年。
宗伯の病状は、多少なりとも好転し、時に外出もする
が、その癇症は変らない。

「五半時 (炸) どろ宗伯起き出で昨夕 癇症さし
おこり不法の始末 後悔のよしこれを申す 例のこ
とながら自分にて心気を取り鎮め妻子に顰められ
候わぬよう つつしみしかるべく丁寧にいましめお

いつつはんどき

候のみのよしこれを申す夫婦仄目(反目)不熟 (不和) すべてかくのごとし日々嘆息のはかなし」 こうした不和

「へ

宗伯の自省も見られるが、馬琴の口吻には、お路への配 慮がこもる。その配慮は、もっとものことであったろう。 というのも、持病の口痛に責められる宗伯、暑さ寒さに

たほど、お路の立ちはたらきは大童であった。 もっとも、この

ロにきしんない そして六月、岩路は流産するのだが、「日記」は、6月 以降の記事の中で、その理由を明らかにしている。二十日 のことである。

「今朝より宗伯糊気さしおこり 機嫌あしきとこ
ろ路例のごとくからかい候や夫婦目を仄め

候様子にて」
その後、お路はいなくなり、近くの家にいるのを下女が
探し出す派手な争いになった。

馬琴は頭をかかえる。実家に返して、暫く時を置くが良
策か、しかし、お路を欠いてどうなるか。
翌日、折良く来た長女のお咲にもなだめてもらう。宗伯
の方は、馬琴とお百が説き聞かせる。

しかし、夫婦の仲は硬化する一方で、お路は、せめてお
咲のいる飯田町へ行きたいといい出す。またまた、話し合
い。馬琴は、

「お路を呼びょせ 意見申し聞かせ候につきよう
やく両方とも和らぎ 昼後に至り 平生のごとし」
と記しているが、こうした争いが身ごもっている体に障
らないわけはなく、月が変って六日、

「お路傷産いたし候よしお百これを告ぐ」
という結果になった。
しかもお路は、翌々日には、馬琴たちの心配をよそに早
くも床を離れ、二日後、

ようさん

これ

と結ばれている。
天保四年、五年。
たしかに、時の流れは、人々に変容をもたらす。
繰り返された若夫婦の不和は、この両年の「日記」に、
ただ一度しか記されていない。それも、下女の取りあつか
いをめぐっての争いで、二人の間のことではない。

宗伯の病症は、出歩くかと思えば、歩行が難かしくなる
という起伏を示すが、お路の心待もつぼを心得てか、癇症
に障るに至らない。いや、この家での暮しようのつぼを心
得たふしがある。
「日記」はいう。

「麻布土岐村老尼(脇)より、お路へ使札これあ

り候よしお路とれを告ぐ」
八年前、実家よりの使札を告げなかったばかりに、不快
がられたお路が、今は家風に馴染んだ姿として、ここにあ

る。

しかも、単に家風に馴染み、家事をこなすばかりでな
く、家政の始末も、馬琴の心にかなう。
金の無心に訪れる者がある。

「お百取り次ぎに出で候ところ不分明につきお
路まかり出で仔細聞きただし候ところ右の通り
(無心)これを申す 一向知らざる人につき断りに
およぶ これによって帰去」
もはや、お百は脇役である。ししっ、物の出し入れも、

れあり 今翁台芸見出し、取のおさめおわんね」 なる記事には、喜色と安堵とともに、ことに、「お見 出し」の一句には、宗伯でなくましてお百でなく、親身に なって筋道をたどり、探し当ててくれたお路への信頼が読 みとれる。

以前の日々を想えば、まずは平穏といえる二年ではあっ たが、家族には変りがあった。

お路が第三子を身ごもって、馬琴は、かねてからの宿願
を果たすことになる。

天保四年四月、子の授からぬ飯田町の清右衛門夫婦のも
とへ、宗伯の長女、お次・四歳を養女として送ったのが、
それである。

滝沢の家の本流、亡き長兄の跡は、宗伯、太郎に継がせ
るとして、入夫した飯田町の馬琴、お百の家系も絶やして
はならない。

さいわい、お次は、清右衛門、お咲の二人によくなつい
ていて、祖父の目論見は達せられた。

そして八月。次女のお幸が生まれ、お次に代わって宗伯
の溺愛を受けるようになる。
太郎の成長も著しい。翌五年正月、七歳。

「太郎 今日より千字文を読ましむ宗伯口誦 両三

遍 いまだ一行も記憶せず」 学問は得手でなさそうだが、父に似ず、豊かな肉体を得

せんしん

除していると、弁財天の厨子のうしろから小蛇が、また書 架の

かね家内に入りて蟄(隠)せるなり

宗伯三十八歳

お路 三十歳
太郎 八歳 ☆幸
の六人で、お次六歳は、養家先の飯田町に在る。
そして五月、宗伯を欠くことになるのだが、この年か
ら、弘化四年に至る十三年間の「日記」は、二年分が所在
不明、十一年分が焼失のため、直接「日記」から、その間
の経過を聞くことは出来ない。

だが、馬琴の恐るべき記録癖は、「日記」に止まらず、
他の記録にも及んでいるので、その空白を埋めることは可
能である。

まず、宗伯の没後、その死を悼んで短い生涯をたどった
「後の為の記」がある。

次いで、滝沢家の祖に始まり、天保十四年までの家の歴
史を詳述した家記・「吾仏乃記」がある。

また、読書随想録である「著作堂雑記」四十巻の抄録
と、焼失した「日記」の簡略な抜粋とが、明治の人々によ
って遺されている。

更に、馬琴が各地に送った長文の書簡も遺って、経過の
空隙を厚く埋めるのである。

以下の記述は、これらのまとめであるが、矛盾すること
なく相補うところに、馬琴の記録に対する忠実さがうかが
われる。

あがれとけのき

死の年に至るまでの宗白の方法こ

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