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ろうまい

たす

身 く返す

百は家に戻ってくる。十ヵ月余の別居に倦んだのか、書画 会に顔を出してみたかったのか。

「われその先非を咎めず相見ること故のごとし

老婆はもとより癇癖ありかつ この年七十三歳な
れば老選(老衰)ならざるにあらずこのゆえに家 家
事は娼婦を資けまく欲せず 俗にいう楽隠居のごとく
にてありける」
もとの五人世帯にもどった一家は、十一月、四谷の廃屋
に移る。一同は土蔵に住まい、馬琴一人は、土蔵に隣接し
た急造の物置小屋に住む。

「いまだ厨(台所)あらねば物置小屋に電をおい
て お路は朝夕煮焼をすなればわれはその傍に起臥
す 今茲は寒威 S と激しくて硯の水すら氷りぬる
旦暮(朝夕)の艱苦あげて言うべくもあらず

お路が、炊きて母屋へ遣わす飯櫃を、凍(水)にす
べりて泥中へ放下ししもこの折のことなり」
馬琴とお路は、太郎を主とする家を築く同行であり、語
り草となる辛苦を分ち合うが、一年前に、お路離縁の妙案
を立てたお百にとっては、飛んだ災難であり、傍観者以外
の何者でもなかったであろう。

納得の行かぬ傍観者は、本屋の普請も終り、暮らしの目
途も立った一年後、駕籠に乗って再び家を去り、飯田町へ
行く。またしても「お路と同居せまく欲せず」が理由であ
った。

たん

かんく

あるし

どうこう

(転)は一生涯 日暮の増強(家計) に魅せず 粟の時価だにも知らで一期を果ししは 賣人のほかに は多く得がたき こも幸というべきのみ」 として、家への貢献を認めていないのは、家計のやりく りに頭をいためざるを得ない 目下のお路と、引きくらべて のことであろう。

そしてお百が、月々の寺詣りを欠かさず、菩提寺の僧か ら賛辞を受けたことを記し、

「賞すべきはただこれのみ」 といい放っているのは、夫の最後の本心であったかもし れない。

すでに嫡男、宗伯を失い、今また妻、お百を失った天保 十二年。

七十五歳の馬琴に従う家族は、お路(三十六歳)、太郎 (十四歳)、お幸(九歳)の三人となった。

しかも、一家の長たる馬琴は、左眼の視力も失って、ほ ぼ両眼失明といえる。

それにしても、右眼を失った天保四年以来、左眼一つ で、よくぞ耐えたというべきであろうが、御家人株入手に 奔走するあたりから、衰えも急速になり、本玉という水晶

はんだま

ひつせい

き候て回翰(返書)は自筆に書き候えども昼後に
候えば婦に代筆 いたさせあるいは請け書(受領
書)のみ致し候仕合せ(始末)に御座候」
とも伝え、また執筆も、これまで半丁分、十一行を細字
で書いたものを、五、六行にして大字で書くという工夫を
打ち明けている。

毎日、隙き間から寒風の吹き上げる縁側に小机をすえ
て、ただただ外光に頼るというこうした努力は、いうまで
もなく家族を養う生計のためでもあったが、いま一つ、衰
え切ったその眼前には、なお畢生の大作「八犬伝」の結び
があったからである。
だが、馬琴はいう。
平仮名で綴る合巻ならば、お路の手を借りてなんとかな
る。しかし、漢字、漢語を駆使する読本、すなわち「八犬
伝」は、不馴れな婦女では、どうにもならない。

たとえば、桂窓の送って来た馬琴作品に対する評文をお
路に読ませたが、姓氏、あるいは男文字(漢字)は読みこ
なせない のである。

読本随一の作者の誇りを抱く馬琴の焦慮、ここに極まる
が、一家に一卜筋の光明も差しこんだ。太郎の出仕がきま
ったのである。

この年、十三歳であった太郎は、発育に恵まれて一見し
たところ、十五、六歳に見える。しかも、本来ならば十六
歳でなければならない番代(勤務)に、近ごろ、十五歳の

どうかん

よみたん

るはいかにと思し召すべく候えども書き候こと
はただ手加減にてどやらこうやら書き候えども読
み候ことはなりかね候かくのごとく書き候うち
その一行は見え候 一行書き終り候て前の一行を見
候え

ばんだい

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は4日 夜、朝になって帰る。

天保十二年、 一月末、桂窓宛て書簡の追伸には、太郎の 番にふれ、

番もしげく かつ仲間の用もこれあり 閑
稀に候えば右につき 太郎母も日々甚だせわし

かつ無人にて かれ(お路)一人にて家事取り行
S候間 代筆致し候 S とまこれなく」
と年頭の挨拶状の遅れを詫びているが、代筆のお路は、
更に別紙に、

「旧冬以来 昨廿七日朝より 初めて雨降り候去十
一月二十日以来およそ六十日目の甘雨に候これよ
り寒気もゆるみ悦ばしく存じ候ことに御座候ただ
し多く降らず昼前より風になり候」
と書き添えているが、おそらく義父が本文の中で、火事
が多く、雪は薄雪で、しめりになるほどもなく、井戸は枯
れ、とあまりにも仰山に嘆いたからではなかったか。

お路の筆頭は、男の手と見まごうほどの勢があるが、や
がて義父に似た熱した手に変ってゆくようである。

かんう

太郎は、若年のゆえに見習御番

五八犬伝

「南総里見八犬伝」の初編五冊が売り出されたのは、今 年・天保十一年より数えて二十六年の昔、文化十一年、冬

す」

板元の書を代えるものすべて四人その株板(版 権

と大見得を切ったが、これまた取らぬ皮算用。六十八冊
で終らせると胸を張っても、終わってみれば、百六冊、そ
の量たるや、皮算用の倍近い長編となったのである。

それにしても、「八犬伝」の続稿は、文名と生計を賭け
た気力の賜物であったが、ようやく辿りついたその結びの
時節には、気力ではなく、視力が問われることになった。
天保十一年、十月の「日記」は、

「八犬伝九果四十一の巻の口後序(後記)の
末六行三丁半とれを綴る

今日雨天といえども 少々暖かにつき 縁側の障
子ひらきおきさぐり書きにこれを書す」
と最後の踏んばりを記すが、実状は、立往生のていたら
くで、ついに作者は、一婦女にすぎない方路に、筆を託
す。

漢字、漢語に溢れる読本の書写は、学なき婦女にかなわ
ぬ技ときめつけていたのに、である。
それから三月たった翌十二年一月、

「八犬伝九集 四十六の巻の口ぉ路に口授致し字
を教えて下書をなさしむ 八っ半時 (千歳) より夕方
までなり三丁出来」
お路受難の旅立ちといえようか。
「八犬伝」全編の後書きともいうべき最終章に、馬琴は、
代筆の楽屋裏を記すが、いうまでもなく、それを記す者も

よみたん

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