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の最大長、止
矢口の間河原にて、せ通り又破りて、既に機にすべ
かりしに、 .......」
これを、一月初めに起筆して、八月末に脱稿。しかもこ
の間、お百が死に、太郎が番についたばかりか、合巻 「金
瓶梅」九集も上げるという忙わしい最中にである。

後書きの苦労話の通りならば、とてものことに書き上げ
られるわけがない。そうではなくて、お路はすでに、書簡
の代筆などにより、相応の書写能力を身につけていた筈で
ある。

二人の苦労話は嘘ではないにしても、ほとんどが「八犬
伝」代筆以前のことであり、それを「八犬伝」後書きにま
とめて記したのは、大作を書きおさめた老作者の深い感慨
の中で、賞賛と謝意を、お路に贈りたかったからこそ、あ
えて彼女をおとしめて、その功を際立たせようとした作為
の筆ではなかったか。
「八犬伝」本文を書き了えたお路が、みずからも登場する
後書き 「回外剰筆」の末尾に「南総里見八犬伝第九集巻之
五十三下尾」と記して筆をおいたのは、秋九月の一日で
ある。

漢字推言を

だに

個百余

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天保十三年二月。 「八犬伝、結局」五冊が、丁子屋から売り出された。 最後の挿絵は、歌川国貞の筆にかかる馬琴の座像で、眼

こうがい

女髪結の停止に初まる風俗矯正は、いつものごとくだ
が、中村座、市村座の浅草移転、寄席の制限、役者、遊
女、芸者の錦絵禁止、とささやかな慰みごとを取り上げ、
はては初物の野菜、鮨、子供の玩具の価までを押さえ、五
両以上の櫛、笄の破棄となっては、もはや縮緬の前掛け、
ビロードの鼻緒を用うる者の姿は消える。

かって、馬琴が書画会を開いた両国の万八楼などの料理
茶屋も、寄り合い、そして書画会まで停止されて青息吐
息。

夏六月。当然のように新板書物類についての細いお触れ
が回ったが、その前兆はすでにあった。

去年の春、春画本を咎められた丁子屋ほか数人が過料 (罰金)。そして、この二月、

「人情本と唱える中本は風俗に害ありとて町奉
行 遠山左衛門尉殿の白洲へ人情本第一の作者


永春水 実名 越前屋長次郎 坂元 丁子屋平兵衛等
召しよせられて吟味これあり」
春水は手鎖をかけられたが、翌年、神田、小柳町の家で
死ぬことになる。

「この年 壬 寅(状 縦) 夏 五 六月より 田舎源氏:
という長編なる合巻の画冊子を絶板せらる:
者柳亭種彦は この年七月下旬病死したるゆえに

ただ絶せられしのみにて 今に至るまで裁許 (裁断)なし版元鶴屋は籠幸を得たり

にんしようぜんとな

ちゆうえん

ながしゅんすい一

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みずのえとら

ごうかん

間一髪、髪をまねかれたのである。

稿料の目算の狂いから、馬琴は、またまた薦書を売っ た。最後に残した珍籍、奇書だが、お路、太郎にその真価 はわからず、盲S た者には、もはや持ち腐れの宝である。

「持つべき者は知己にぞありける」 馬琴の窮状を知った遠国の知己たちの合力によって、通 計、金二十両一分一朱、銀九匁七分五厘を得る。

この家の財用をあずかるお路にとって、ありがたい金高
であった。

その昔、亡き夫からねだり取った二分という金は、白米
二斗五升に当ったが、今は一斗がようようであろう。ただ
米だけは、太郎の扶持として、月ごとにほぼ四斗前後が運
びこまれる。

一家は、冬を越した。

*

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とけのき

翌天保十四年、冬。一年をかけて滝沢の家の記録、「吾 仏乃記」が成る。 「美少年録」続編の当てがはずれ、蔵書を売り、もはや筆 を折ろうの老馬琴ではあったが、筆はとりたい、いや、語 りた い のが、作者の因果。

それならば、世には出さぬ「家記」の決着を、今こそつ けておくべきではないか。褐変じて福と思うほかはない。

さいかち

かたく

いにしえ

とう

ある日は、皇角坂の行きずりに、八本矢車の紋所をみと めて、その武士の家系をたずねたこともある。

心を砕いた二十余年ではあったが、一家の過去は、頭な
に光を浴びようとしない。

それでも文政五年には、おぼろに捕らえた五代、百五十
年の「家譜」を綴り、「吾仏乃記」と題したが、その命名
の由来は、こうであった。

「源氏物語』にあがほとけとうとし といえる
を取れりこは古昔の諺なるべしげに仏として尊と
からぬはなししかれども。おのれが持仏は人の持
仏より いとも愛でたくいとも尊く思えるはなべ
て世の人の常情なり

しからばこの書のごときも他人の見てはおか
しからず思うべけれどわが後の孫等はもっとも愛
でたくも思うべしこれ吾仏尊きにあらずや」
更に時流れて二十年。今、かえりみれば、訂正、加筆を
要する「家記」となってしまったことは勿論であるが、お
のれもやがて祖の一人になる。とすれば、おのれ一代にか
かわる一族の消息、大事、小事の成行きを綴っておくこと
が、児孫のためであろう。
生計は乏しくとも、身をひそめている今、時日は十分に

あがほとけ

ある。

見えぬ目を虚空にすえて、おそるべき記憶の堆積から、 昔語りを紡ぎ出す義父の言葉を書き留めてゆくのは、お路

翌日の営れ高い母、の声を知り、 に水を取る。

書き留めてゆくね路には、そんな倉蔵が、よくぞ今日の 大作者になったものよ、の思いが往来する。

しかし、倉蔵には文筆の才があった。その才を手がかり に、将来を切り開いて行く。

くらした 二十四歳、深川、槽下の店に住み、当時、江戸一の我 作者・山東京伝を頼って、処女作を物する。

「当年はじめて著す所壬生狂言の絵冊子(尽用而二 分設)あり 是よりして後五十余年著編の物の

本大小二百八十余種に至れり」 更に義父は、版元・蔦屋重三郎の店に身を寄せて、ひた むきに戯作の道を走り出し、そして、義母の会田家に入っ たのであった。

つかいはたしてに

時に、孤高猾介といわれて、なにかと煙たがられる義父
ではあるが、お路などのあずかり知らぬ辛い昔があったの
である。

また、もっぱら、善を勧め、悪を懲らす著作にいそしむ
義父には、やはり、世の裏表を見つめながら、謹直誠実に
生きたいと望んだ昔があったと察せられる。

今、この義父が、最後と思われる余力をかたむけて、児
孫のために口授する「家記」を綴る者が、他家からこの家
に入ったお路であるとは、いかなる因縁であろう。

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