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い丁子屋が窮き出す。

書き上げたものの お蔵になってしまった「美少年録・
続編」を、「新局玉石童子訓」と改題して出してみようと
いうのである。

明けて、弘化二年正月。
「童子訓」初糊は売り出されたが、奥書きには、おそる
おそる「代稿者・沢清右衛門」とあいまいに名乗る。

二月、改革の主脳であった水野老中が職を辞すと、禁令
の手枷、足枷もはずれて、世は旧に復し始めた。

「太郎 鈴木安二郎 (恥) と約束致し候よしにて暮
時前より荒木横丁 植木屋(講釈場)へ八犬伝講
釈を聞きに行く右小遣い六十八文持たせ遣わす
四時 (鹹) 前帰宅」
若い者は屈託ないが、老人と寡婦は、「童子訓」の続稿
を急ぎ、八月には二候が、十一月には三状が出る。その十
一月。

「夜食後太郎 四の巻(童子訓)三番校合代読 か
つ 直し落ちを補う

しかるところ 代書(ぉ路)誤まって 和老 を和郎 (必解)に作るもの五ヵ所あり 今晩初めて見 出して遺憾に堪えず太郎に命じて書き直させ入 木 (V^*) 直し致さすべきために右稿本こしらえお く」

「読書きらいに候間 小子(馬琴)の幇助になりかね 候かつ武芸稽古に日々出あるき候間代筆も課 しか

弘化五年、二月に改元あって嘉永元年(一八四八)。
いよいよ手稿は乏しくなり、わずかに「雑記抄」に記事
二項、また遺る書簡も二通となっては、滝沢一家の動静
は、濃い霧の中である。

しかし、それより百二十七年ののち、昭和四十六年、所
も岐阜の円徳寺から、この年の「日記」が発見される。
「馬琴日記」の例にたがわず、記事は詳細を極め、嘉永元
年四月から翌二年五月までの十四ヵ月の一家を、霧の中か
ら生き生きと呼び戻して、やがて「路女日記」へとつなぐ
役割を果すこととなった。

この嘉永鮮「日記」を記す者は、お路と太郎しかいな
いが、なお「馬琴日記」と呼ぶのは、馬琴の口授の口吻
が、死の十日前まで聞かれるからである。

それにしても「馬琴日記」と手稿とは、ついに二分金の
行方を明らかにしなかった。

些細な謎ではあるが、馬琴の詳密さならば片言の中にで
もと、読みあらためてきたが、憶測の余地すら見出せな
い。

しかし「馬琴日記」は、交錯しながら「路女日記」にと
変ってゆく。お路自身に望みをつないで、なお、その後を
辿る。

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は、気をつつあ 「太郎義 当春以来

任歌を止め候て 読み習い たきよし申し『源氏』『万葉』そのほか 淵本居の著書を買い入れ困らせ候ことに御座候

ただ今に至りて 多く書籍を買い入れ候義
は 太郎の身分にてはなりがたく候 小子もただ今
は買い入れ遣わし候余財これなく候えども 若き
者のならいにて を止め候ことなりかね欲するも

のはただ速やかに手に入れたく存し候」
その通り、太郎は国学に眼を開き、宣長の孫弟子に当る
医師・磯田平庵の源氏物語夜講にも通い出したが、血筋と
いおうか、この家に暮らす者の必然といおうか、心が文の
道に向かい出したのである。

従って、祖父のために、資料本を読んで聞かせる役を受
け持つようにもなっている。

「夕七時 (酢職) 太郎代読,武家評林,四十六の巻 終
りまで残らずこれを読むこの分代読卒業なり」
その太郎の秩禄(給与)は、三十俵三人扶持である。
すなわち、年に三十俵の切米と、月に三人口の扶持米を
受けるのだが、その実際は「日記」に詳しい。

まず切米三十俵は、蔵前の蔵宿(札差)が太郎たちに代
って受け取り、換金して渡される。この年、太郎は、三十
俵の切米料として十一両二分と七百文を三回にわけて渡さ

ぶけひようりん

ちつろく

きりまい

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い知ることの出来た持筒同心・滝沢太郎の家は、まずは平 程であった。

七 遠行

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くるぶし

平穏と見えた嘉永初頭の滝沢家、その空模様がくずれる
のは、すぐにもである。
五月。太郎が病む。風疾が再発し、

「面部に腫物出来 咽喉 脚も少々腫れ」
という症状である。
服薬の効なく、六月には発熱して床につく日もあり、さ
らに踝が痛み出す。
七月、膝にも腫物が出来て歩行不自由の日もあるが、病
勢に波があって、なんとか番をこなす。
八月、すでに国学を学んでいる太郎は、病身がかえって
風雅を慕わせるのか、画技にも心が向かい、かっての師・
楠本雪渓に再び入門するが、持病が癒えたわけではない。

風疾とは、風患、風語、中風、あるいは狂疾と医師によ
って様々に言いかえられる病名だけに、医師の処方も様々
である。

だが、五年前の鮮瘡にも皮膚を冒され、今も腫物に悩ま
されながら、発熱、関節痛などを伴うところを見ると、リ
ューマチをふくむ膠原病の一つと考えられなくもない。今
なお療法の定まらぬ難病である。

くすもとせつけい

せんそう

こうげんびょう

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が、太郎を襲う。

千任の先まで人をやり、
飯物に練 まぜて塗ってやったが、効能はともかくも、なす
術もなく苦痛に耐えるわが子を見守るよりは、ましである。

折も折、祖父の喘息煩悶がぶり返した。
糸瓜を切り、取った水を煮つめて飲ます。黒蜜と生姜を
燗酒で飲ます。鳩の黒焼きを食べさせる。もっとも、あわ
てていて白焼きにすべきを黒焼きにさせたのだが、それも
良しといわれて胸をなでおろす。

しかし、高齢の祖父は、すでに則に立てない。虎子(便
器)を使う。その祖父が、なお「日記」を口授する。

「われ等昨夜は寒気に堪えず かつ煩悶にて臥す
ことかなわず 暁八時 (午) までにお路を三度呼び
起し 介抱をうけ八時より正六時 (杵鋼) まで 少々
鎮まり、夜明けて起き出ず今日は小便 暮時過ぎま
で四度ただし三、四句ずつ通ず朝飯ゆづけ一わ

ん 夕飯 うどんもり一つ。ただこれのみ」
最後まで詳細をむねとする「日記」だが、翌十月廿一日
より、記す者が太郎に代わり、口授も消えて、ついに「馬
琴日記」は了る。

看病に追われるお路に、「日記」を記す いとまがなけれ
ば、病人とはいえ太郎が筆をとるしかない。

見舞客は次第にふえてくる。飯田町のお咲、お次、そし て遅見のおなど、身近かな者は泊りこみの看病。

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