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二分金

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人婦記金

みち

きんすいりよう

そうはく

つか

さい

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「お路こと金子入用のむね宗伯へ申すにつき 人より金二分これを遣わす右につき 予 子細 相糺し候えども分明ならず

この度の義は格別以来右ようの事これあり候わ ば紀国橋里へかけ合いに及ぶべきむねきびしく いましめおく」

かくべつ

寺着母行郎伝

きよくていばきん

江戸の戯作者・曲亭馬琴の「日記」、文政十一年十一月 六日の記中に、右のような一項が記されている。

お路は、馬琴の息子、医師・宗伯の妻で、前年の三月、 嫁入りしたばかり。そのお路が、夫にねだって二分という 金を手に入れたが、義父、馬琴の知るところとなり、何の

にもかかわらず、今日はそのままにしておくが、り送 すようならば、築地、紀国橋の実家方に談し込む、という 裔しで打ち切ったところをみると、お路の黙秘も、よほど 堅かったに違いない。

「思し召しより米の飯」。人ひとり、惣菜はつましくとも、
米だけは、日に五合

見八犬伝」の作者として、江戸随一の文名高く、目下は
「近世説 美少年録」を書きついで多忙であるが、もともと
淡白な人柄

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てんもんかた

文政十一年(一八二八)、世は泰平である。

のちに天保の大飢饉とよばれ、米が倍近く値上がりし
て、手にする金の値打ちが半分になる年までには、まだ六
年ある。

ただ、歴史年表を見れば、いわゆる「シーボルト事件」
が特記されている年ではある。
「馬琴日記」の同年十月十二日の記中にも、

「.......... 天文方 高橋作左衛門あがり家(未決
獄)へ遣わされ候よし子細に趣を知らず九吉 (鋼

余談」
と記されてはいるが、内容不明のまた聞きに過ぎない。
それは高橋が、帰国する長崎蘭館医師・シーボルトに、
日本地図などを贈ったことに始まる事件であって、ようや
く高まろうとする蘭学の気運に水をさしはしたものの、広
く世間の知るところでなかったことは、馬琴の記事によっ
ても明らかである。

長崎の海のかなたの清国で、阿片戦争の始まるのがはば 十年後、神奈川沖の黒船騒ぎ、ベルリの来航が二十五年

臣 田九吉

しんこく

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しゅんすい

いえなり

「春色梅暦」によって、言葉通り子女の紅涙をさそい、人 情本を泣き本と呼ばせた為木春水、

また、
「富嶽三十六景」をもって鳴る葛飾北斎、

三十
「東海道五十三次」駅々の情調を写した歌川広重、
豊国の衣鉢をついで、秘画の一頂点を極めた香蝶楼国

しかたくさい

まつばらん

うたがわひろしげ

いはつ

こうちようろうくに

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いつちゆうよし

さだ

貞、

は健在で、正に江戸らしい江戸といえる最後の時節、と
見てとれる。

冒頭の「馬琴日記」は、そんな平穏な江戸の町中の、一
市民の家に起った些細なもめごとの記事ではあるが、なぜ
お路は、金二分の行方を素直に打ち明けなかったのであろ

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そして四十年ののちに、明治なる世が到来し、千代田城
の主が、公方様から京の御門に代わるのだが、目下は、十
一代将軍・家斉の治下であり、泰平の逸民にとっては、明
日もまた、今日のごとくあるに違いない日々であった。

相変わらず、江戸の町に火事は多いが、松葉蘭や万年青
の盆栽が、奇妙な投機の対象となって馬鹿々々しい高値で
取引され、一時、下火であったなよやかな節回しの一中節
が再び流行り出している。

一方、馬琴のかかわる【作の世界に目を向けて、作者、
画工の消息に当ってみると、
狂詩、狂歌の申し子、蜀山人・大田南畝、
若き日の馬琴が兄事し、そして好敵手となった山東京


直情径行ながら、よく滑稽本「浮世風呂」「浮世床」を
物した式亭三馬、
はすでに亡く、
女絵の領域を席巻した喜多川歌麿、
歌川一門の元締め、役者絵の初代・豊国、
も逝ったが、
当の馬琴を筆頭に、
津々浦々に笑いを振りまいた「道中膝栗毛」の十返舎一

ささい

きんとうきよう

う。

しきていさんば

きたがわったまる

とよくに

それ以降の「日記」を初めとする手稿類などに当ってみ
ても、この件にまつわる記事は見当らず、またお路の実家
はもとより、彼女自身にも金を必要とするような事情はみ
とめられないので、一切は謎のままである。

だが、馬琴とお路の二人は、その後二十年にわたり、一
つ屋根の下に住み、辛苦をともにするのだから、若き日の
お路の謎めいたふるまいは、なんとしても気にかかる。

二分金は、どこへ消えたのであろう。

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二百俵取りの旗本の筆ながら、売れに売れた「ぼ柴田 舎源氏」の柳亭種彦、

りゆうていたねひと

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はん

きなお鉄もその名は聞いている。

だが縁組みとなれば、作者の家とはどんなものか、の不
安も起るが、医師いうからには、父や兄の面影も重なっ
て、身近かに思える上に、お鉄の家族も乗り気である。

早速、神田明神の掛茶屋で見合い、という手筈になった
が、先方は縁起をかつぐ方なのか、方角が思わしくないの
で、上野、他の端に変えたいといって寄越す気の追いよ
う。相手方も乗り気と見えた。

その日の正午。お鉄は、父母に付き添われて約束の茶屋
へ行ったが、先方は少々遅れた。

お鉄は器量好しである。二十四歳で若死にしたもう一人
の姉も、近所近辺評判の麗質で、姉妹ともに色が白い。

待つほどもなく、仲立ちの戸田越前守隊用人と当人、そ
の母親の三人が、供をつれてあらわれたが、馬琴の顔は見
えなかった。

宗伯と名乗る相手は、細面で脾弱な気がしたが、折目正
しい物言い。飯田町で育ったという母親は気さくで、まず
まずの席となり、ころあいを見はからって別れた。

お鉄たち親子は、桜満開の上野の山に上がったが、この
縁談、断わる理由は見つからない。親子三人水入らずの、
最後の花見の思S であったが、やはり話はするするとまと
まり、二十二日には結納。

二十七日の暮れ方。塗師町を出た花嫁姿のお鉄は、神田 明神下同朋町 東新道の滝沢家の玄関に、文字通り奥のま

婿。盲人では最高位の検校の家を継げば、それなりに

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