ページの画像
PDF
ePub
[graphic]
[ocr errors]

ビジョン番組がご家庭で楽しめる MUSE-NTSCコンバータ内蔵 命のノイズ、チラツキを大幅に軽減3次元Y/C分離回路採用 臨場感あふれる音場で楽しめる CTP(カスケード チューニングポート)方式採用 が冴える、新・顔料入蛍光体ブラウン管。視聴環境や映像内容の変化に対応する、フ 映像コントロール&人工知能AI(ハイビジョン番組を見ながら地上放送も楽しめ 商機能。●ビデオはもちろんJSBデコーダもワンタッチ操作、ツーカーリモコン。 EMUSE-NTSCコンバータ内蔵カラーテレビ

HVC-33TO(M)木目...標準価格450,000円(税別) ムラックTD-L33TO(M) 木目...... 標準価格50,000円(税別)

合計価格500,000円(税別) 商品の据付けに要する運賃・配置料等は、別途必要です。

[ocr errors]

の星祭来月一日に致し候よう 家内

お路か宗伯から二分金をねだり取った日は、一かね
悲限りなし」と馬琴が記した日から数えると、六日目に
当っている。

お路がせめてもの悼意をこめて、金を与えようとして
も、義父も夫も、耳を貸さなかったであろう。お路の堅い
黙秘のゆえんも、それを察してのことではなかったか。

おかねは、滝沢の家の下女としては珍しく、十七ヵ月を
つとめて暇をとっている。

もとより憶測にすぎないが、滝沢の家の「日記」「家記」 が、いつかあぶり出したお路の気性からの一解である。

十 菩提寺

嘉永四年(一八五一)三月二十六日、昼過ぎ。
四谷、信濃殿坂の家を出たお路は、ぬかるむ道に足もと
をかばいながら、深光寺に向った。

[graphic][subsumed][subsumed][subsumed]

かつしげ

うろこがたや

まさつぐ

ろうしつ

義父の口授で書き取った「家記」によれば、義姉も夫婦 の縁が薄い。

初めに二人まで婿養子をきめながら流れてしまい、よう
やく三十の年になって、呉服屋で手代をつとめていた吉田
真六改め清右衛門勝茂を迎えたが、天保六年に逝った。

翌年、本屋の榎本につとめていた鱗形屋庄次郎改め清右
衛門正次を迎えたのだが、ここにきて、またまたの大病で
ある。

正次は、義姉とは八つの年下であったが、義父もいうよ
うに「本性 世才なしといえども老実の聞えあり」とい
う生真面目な人柄で、前夫の勝茂と違って、「酒色をたし
なむ」などということは、一切なかった。

お路が床についている正次を見舞うと、優れ声ながら、病
人というものは人恋しゃで、人が来てくれるのがなにより、
と笑顔を見せたのに、義姉への気がれからそれきりになり、
五日後には亡くなってしまったのが悔まれてならない。

それにしても滝沢の家は、どうしてとうも男子の運に恵
まれないのであろう。

二人の夫を送った義姉はいうまでもないが、夫に死なれ
て十四年、家の柱と頼んだ義父、掛けがえのない一人息子
の二人を、一年の間に失い、迎えた婿には手を咬まれるわ
が身も、おなじく不運としかいいようがない。

今、滝沢を名乗る飯田町と四谷の二つの家には、それぞ れに寡婦と娘一人しかいない。その娘は二人とも、お路が

しわが

毘羅宮へ願掛けに日参。

十日目は、雨。道がかかってほうほうので戻ってきた
が、お幸がいない。留守を頼んだ老女に聞けば、将屋に行
き、帰りにはおかさのところで髪を結ってもらうつもりら
しい。

なぜこうも思いやりというものがないのであろう。この
雨では、と湯の一~桶もわかし、母の足の汚れを洗わせよ
うの気遣いが持てぬものか。

今は亡き渡辺登様は、子供のころ、雪の中を出かけた母
御の帰りを待って、湯をわかしながら居眠りをしてしま
い、着物の袖を焦がして、ひどく母御から叱られた、と義
父から聞いたことがある。

その思いやりよりも、一枚の着物が惜しいほど貧しかっ
たのだそうだ。思い合わせて、つくづくとお幸が情けない。

だが、なんのかのといってはみても、すぐに忘れてしま
うのも、昔からの性分である。

恩知らずとしか SS ようのない深田のおよしだが、その
後もぬけぬけと訪ねてくれば、以前と変らぬあつかいにな
ってしまう。

岩井政之助もおなじこと。二度と滝沢の家には行かぬ、
それなら、こちらも有難い幸せと受けはしたものの、これ
がまた顔を見せ、次には話しこんでゆく。

顔も見たくない筈の山本半右衛門にしても、つい先達 て、こちらから訪ねて行った。

しようぶん

[ocr errors]

そして最終冊は、七年後の「安政五年日記」となるが、 記事は、その年の十二月十四日に至るという。

しかし、お路の他界は、八月十七日であるから、没後も
「日記」は記され、従って、お路の死の前後も、書き留め
られていることになる。

とすれば、没後の「日記」の記者は、誰か。いや、お路
は、どのようにして五十三年の生涯を閉じたであろうか。

そのあたりをうかがい知りたい性急な思いに応えて、訴
刻者の木村三四吾は、「滝沢路女日記 一」の冒頭解題の
中で、簡潔に、すべてを明らかにしている。

「安政五年八月十七日、路女没。右第十冊(最終冊)、
没四日前同月十二日までは自筆だったが、そのあた
りの行文筆意に何の乱れもない。
以下、他筆。十四日初出の他筆記にいう、
一、夜八つ時ごろより 母 心ちあしく候由って、
私らおこし候間、早くおき出、手あて致候所大

きによろしく、朝迄ねむる
上記中、母とは路女、私はさち。更に三日後十七日

つちのとひつじ 十七日 己未 一、早朝、母事の外よふすあしく候間、姉、万 平、吉之助、私まくらべに折。四つ時過、死去 致。 早く 山田土岐村江人出ス。田辺藤吉、早 く参り、一夜つや致、あけがた帰去

« 前へ次へ »