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俊之は運転しながらそんなことを考えていた。はじめて
会った二年前のあの日から、芳佳は徐々に、けれど確実に
俊之の生活に近づいてきて、今では俊之にとって絶対に失
いたくないもののひとつになってしまった。

国道を真っ直ぐに南下して、県道との交差点を突っ切っ
た先に、芳佳の大学の正門がある。その正門から校舎まで
がまた遠いのだと、よく芳佳はこぼす。

下り線を走ることになるから国道も全体的に流れは良か
ったが、県道との交差点の手前から混みはじめた。という
のも、その交差点で右折する車が多いため右折車線の流れ
が詰まり、その上半年ほど前から交差点の三十メーターほ
ど手前の左側一車線が工事のため使えず、結果として交差
点の手前の何メーターかの部分が一車線しか使いものにな
らなくなるからなのだ。
「ここの工事、いいかげんに終わってほしいわよね」

芳佳が言った。
「ああ......」

そう答えながら俊之は、それにしてもちょっと詰まりす
ぎだな、と思った。今日の混み方は一時的な渋滞と呼んで
もいいくらいだ。

国道は交差点を底にしたような形でゆるやかなスローブ
になっている。前の車のブレーキランプがまた光った。走
っては止まり、走っては止まりに少しばかり嫌気のさして
きた俊之は、ギアをニュート ルに変えることはせず、フ

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ントを止めた

俊之のレジェント 先は、前を走っていた白いカロー
ラのパン 1にが りり喰いこんでいた。このノロノロ
た流れの中でア セルも踏まずにただクリーブの力だけで
いていたにもかかわらず、どういう力学が働いたのかカ
ローラの後部はかなりひしゃげてしまっていた。レジェ
ドのエンジン部分が無傷であるのがせめてもの救いだが、
前の車のひしゃげ方を考えれば、むこうの衝撃もかなりの
ものと思われた。音も凄かっただろう。

つんのめった身体をシートベルトによって背もたれに戻
された芳佳は、白い顔をもっと白くして目を大きく見開
き、ただ前をじっと見ていた。俊之でさえも、自分の目の
前で起こっているこの事象が、具体的にはどういうことな
のかとっさには判断できないような状態だった。

バンの周囲にいた制服警官が、わらわらとこちらの方に
駆け寄ってきた。その様子が俊之の依然としてボーッとし
た頭の中では、「楽しそうなモノ」を見つけて駆けてくる
犬の群れのように感じられた。

俊之が覚醒したのはそのときだった。自分が現在、ひど
い窮地に立たされていることをいきなり悟った。

警官の姿がどんどん近づいてくる。シートベルトを外し もしないで、さっきのままの姿勢でいた芳佳が、心細げな 小さな声を出した。 「トシ......」

願とさえ呼べるような口調で言うのだった。
「あたしが送ってなんて言ったからだもん、一緒にいる
......」
「いいってば」
「でも.....」

警官はすでに俊之の車のすぐそばまで来ていて、制帽の
つばの下から覗きこむような視線をこちらに投げて寄越し
た。その瞬間、俊之は切羽詰まって逆上してしまったのだ
った。
「行けっつってんだろッ」

自分でもギョッとしたくらいの激しい大声だった。もと
もと目をうるませていた芳佳が、そのひと言でついに涙を
流した。

運転席側の窓ガラスを、警官の指がトントンと叩いた。 隣りで芳佳がしゃっくりのような音を立ててすすりあげ

る。

俊之がのろくさとシートベルトを外してドアを開ける と、芳佳も仕方なく座席から背中を離した。

カローラの運転手は三十代半ばの黒縁眼鏡をかけたサラ リーマンふうの男で、助手席には奥さんらしき女性を乗せ ていた。彼はすでに車から降りていて、接触した部分― つまり俊之のレジェンドの鼻先に喰いこまれた自分の車の バンパーのあたりを、腰をかがめて覗きこむようにして見 ている。女性の方も車から降りてい て、しきりに首筋のあ

しかしもうしばらくすれば、彼らのそんな能度か手のひ
らを返したように一変することを、少なくともそういう可
能性はあるということを、俊之は知っていた。

とにかく今いちばん先にやらなければいけないことは、
芳佳をこの場から立ち去らせることである。俊之はルーフ
越しに芳佳を見た。芳佳は、エッ、エッ、という音をとき
どき咽喉の奥から洩らし、頬を涙でびしょ濡れにしながら
俊之を見つめたままでいた。
「行きな」

なるべく優しい調子で言ってやろうとしたつもりだった
のに、あまりうまくいかなかった。お前のせいってわけじ
ゃゼンゼンないんだから、というひと言を付け加えてやり
たかったが、芳佳がそこに突っ立ったままでいるのを見
て、俊之は追い討ちをかけるように言ってしまった。
「行けって」

すると芳佳は目のふちに溜まっていた涙をどっと激しく
こぼれさせ、大きな目でもう一度俊之の顔を見つめてか
ら、くるりと振り返ってゆるいスローブの舗道を小走りに
駆けていった。

あと味の悪い安堵が俊之の胸にどん、と落ちた。せめ
て、お前に怒ってるわけじゃないんだよ、と言ってやれば
良かったと思ったら、苦い後悔が身を切った。

―じゃあさあ、じゃあさあ、試験終わったら"ジョー ズ。で久しぶりにごはん食べてさあ......。

入れや財布に入れるものなのだろうが、俊之は いつも自分
の免許証をトランクの隅の用具箱の中にしまっていた。特
別に「隠さなければいけないもの」という意識があるわけ
ではない。ただの習慣である。

免許証に目を落とした警官は、やはり多少は「お?」と
いう感じの顔つきになった。
「あー、通名はありますか」
「はい、新井俊之です」
「ん、新井さんね。それじゃあ新井さん、車検証も出しと
いてください」

そう言い置いて、彼は今度はカローラの運転手の方に近
づいていった。

俊之がちらりと考えたほど、その警官はあからさまに態
度を変えることはなかった。しかし彼のことばが、俊之の
免許証を見てから急に「ですます調」に変わったことを、
俊之は聞き逃さなかった。
氏名・朴俊成
国籍・韓国
俊之の免許証には、そう記載されているのだ。

埃くさいベッドカバーに顔を埋めて、俊之は目はつぶっ たまま何度目か判らない溜息をついた。

涙をいっぱい浮かべた大きな目が、俊之の瞼の裏に焼き

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