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と、なぜか怖くて俊之は電話することができないのだ。 「トシくーん」

階下で母親の呼ぶ声がする。声を出すのも面倒くさく
て、俊之は無言のままベッドからのろくさと身を起こし
た。
「トシー、トシユキッ。もーう、呼んでろでしょオ」

そんな声が、階段を昇ってくる足音とともにだんだんに
近づいてくる。「へいへい」とひとり言のように低い声で
答えながら、緩慢な動作で俊之が立ちあがるのと同時に、
部屋のドアが開いて母親が顔を覗かせた。
「ちょっとオ、返事くらいしなさいよ、もうやんなっちゃ
うわねえ。あっ、この部屋埃くさーい」

世の中で母親と名の付く人すべてが有しているのではな
いかと思われるそのパワーに真っ向から対峙する気になれ
ず、俊之は微妙に視線をそらしながら淀んだ声で言った。
「なーにー」

母はすでにくるりと背を向けて、もう階段を降りかけな
がら言った。
「電話よ、あんたに」

芳佳かも知れない。俊之は慌てて部屋の外に上半身を出
すと、階段を降りていく母親の背中に向かって大声で訊ね

る。

「誰?」 しかし階下からの間伸びした声はあっけらかんと伝え

「やあ、たいした話しゃないんだ」
そうなの? でも久しぶりだし、今日仕事あんまり遅く
ならなかったらまた電話してみるよ」
「うん......」
「じゃーねー」

たしかにスンジャと話をするのは久しぶりだった。けれ
どスンジャが「今日また電話する」と言ったのは、短い会
話の中で俊之の胸の内を読み取ってくれているからだ。ス
ンジャはそういう子だった。

スンジャと俊之は、小学生のころからの友だちだった。
親友のひとりといえると思うが、そう頻繁に会ったり電話
のやりとりをしたりしているわけではない。

同い年で、同じ在日三世で、スンジャのお姉さんと俊之
の二番目の姉が友だち同士だったこともあり、小学生のこ
ろ民団の子ども会で会ってすぐに仲良くなった。

崔順子というのがスンジャの名前で、日本ふうに読めば
サイ・ジュンコということになるが、スンジャはみんなか
らスンジャと呼ばれているし、学校でも会社でもチェ・ス
ンジャで通している。

ただス ンジャの両親は離婚していて、スンジャは今はお
母さんと一緒に暮らしているのだが、そのお母さんが仕事
をする上でずっと安藤という通名の苗字を使っているの
で、スンジャもたまに安藤を名乗ることがあるのだ。特に
俊之の家へ電話をかけてくるときは、俊之の姉の友だちだ

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韓国人であることにしてきたっちりはない
や、少なくとも隠そうと意識してきたわけではなかった。
ただ、本人はそれが自分の名前だと思っている「通名」を
ずっと使ってきたし、なんとなくそういうことになってし
まっていたと言うより他ない。

だからほとんどの友だちは誰も俊之が韓国人であること
を知らないけれど、だからといって、いきなり自分の国籍
を周囲の友人たちに明かしてみるというのも「何か妙」と
いう気がするのである。

そう、「隠したい」と明確に意識したことはなかった
ーはずであった。それなのに、あのとき俊之が真っ先に
考えたのは芳佳をこの場から立ち去らせなくては、という
ことだった。

なぜなのか、なぜ自分が、芳佳を泣き出させてしまうほ
どに激しい口調になってまでそうしようとしたのか、とい
うことを、俊之はこの一両日考え続けている。そうして
Sあたることは いくつかあった。

俊之はずっと、帰化する前、つまり免許証に韓国籍が明
記されているあいだに車でトラブルを起こすことは「いち
ばん避けたい事態」であると思っていた。運転している最
中に、たとえ自分が何の違反もしていないときでも、パト
カーを見るとなんだかどきりとしてしまうのもそのせいな
のだが、それは従兄弟や親戚の人々から聞いた話によって
俊之の心の中に植え付けられた思考であるような気がす

せてくれと言った。しかし免許証を見た警官は、彼女に外 国人登録証の提示を求めた。母親の急な腹痛に驚いて、慌 てて家を飛び出してきた彼女は、それを持っていなかっ

た。

家に置いてありますから、医者を呼んだらすぐに帰って
持ってきます、と彼女は言った。ところがその警官は、あ
ろうことか「家の人に持ってきてもらえ」と言ったという
のである。家にいるのは母親ひとりきりで、しかもその母
親はお腹が痛くて家でのたうちまわっているのだと、さっ
き説明したばかりだというのに。

結局三十分ほどの押し問答のあと彼女は行くことを許さ
れ、お母さんの腹痛も単なる腹下してたいしたことはなか
ったから良かったようなものの、もしそれが盲腸炎か何か
で で時間がかかったせいで腹膜炎になってでもいたら、いっ
たい誰が責任取ってくれるっていうのよねえ、と姉などは
結構憤慨していた。

俊之があのとき芳佳を立ち去らせることで頭がいっぱい
になってしまったのは、そういった話が心のどこかにしみ
ついてしまっていたからだという気がする。もし自分がそ
ういう扱いを受けてしまったら――実際には一昨日の事故
の処理をした警官などは、別に何の問題もなかったわけだ
がー、そんなところを芳佳には見られたくないという気
持ちがやはりあったと思うのだ。
それに、俊之が外国人だと知ったら芳佳はびっくりする

「うし」

相変わらずの能天気な声で、松田はいきなりきった。 「別にイ......。何にもしてねえよ」

ぶっすりと俊之は答える。
「今日ヒマかよ?」
「え......。どうして」
「囲まない?」

麻雀のことを言っている。
「お前他にすることねえのかよオ、寂しいヤツ......」
「るせえな。やるの、やらないの」
「......今日は遠慮するよ」

松田は「えー、めずらしいじゃん、やろうよ出てこい
よ」などとしばらく喚き散らしていたが、急に気付いたよ
うに言った。
「どうしたんだよ、元気ないじゃん」
「んー......。別にイ」
「え、ケンカでもしてンの?」

俊之はまた舌打ちをした。心の中で「放っとけバカ」と
呟いている。
「へえ......、めずらしい」

何の気なしに言ったことが図星だったと感づいたらしい
松田は、今度はほんとうに意外そうな口ぶりで言った。実
際、俊之と芳佳は付きあいはじめて二年間、一度も「マズ
い状態」になったことがなく、それは俊之の友人たちのあ

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