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いたくなった。もう松田なんかと話をしていられる気分で はなかった。

松田との会話をいいかげんに切りあげて受話器をスヌー
ピーの腕に戻した俊之は、もう片方の腕を腰にあてた姿勢
でおどけた顔をしているスヌーピーを見つめた。

かけ慣れて脳味噌のシワに刻みこまれている番号を、受
話器は下ろしたままダイアルしてみる。芳佳に会いたい。
声を聞きたい。それなのに受話器をあげて同じ動作をする
ことができない。

「俺、バカみた S ......
激しい自己嫌悪に襲われながら、俊之はまた埃くさいベ
ッドカバーに顔を埋めた。何が自分を抑制しているのか、
俊之には判らない。

「ふうん......、そうなんだあ......」

意見めいたことも感想らしきことも一切口にしないまま 俊之の話をひととおり聞き終えたスンジャは、氷の溶けか けたアイスティーをストローでかき混ぜながら言った。 「バカみたいだよね、バカみたいだよ俺、実際。こんなコ トぐしぐし言ってるくらいなら早く電話しろって感じだ ろ? 判ってンだけどさあ......」 「こんなコトぐじぐじ言ってる」こと自体に恥ずかしさを 感じている俊之は、それをまぎらわすように立て続けにこ

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スンジャも黙った。

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俊之か言い返せないでいると、

そう言わ てしまえば「そうなのかも......」という気も するが、やはりどこか心の中に「そういうワケじゃない」 と思っている部分がある。

違うんだ。隠したい のどうのって前に、かか S.

たんだよ、うん、俺の知らないう
ちに」

とっさにそう言ったあとから、今のことばが自分の正直
な気持ちにいちばん近いような気がしてきた。そうなの
だ、そういうことになっち てたのだ、知らないうち
に。

自分の家が韓国人家庭なのだと――そういう正確なこと
ばではなくても、よそとは違う「事情」があるらしいとい
うことを、ぼんやり意識しはじめたのはいつのころだった
ろうか。はじめての指紋押捺よりずっと前のことのように
思う。

それを考えたら、急に遠く以前のある日の情景を俊之は
思い出した。

母が夕食の支度をしていた。台所のそばの食卓では、ふ たりの姉がべちゃくちゃ喋りながら皿を出したりしてい る。いちばん上の姉は、二階の自分の部屋にいた。父はま だ帰ってきていなかった。俊之は小学校二年かそこらのほ んの子どもで、居間のテレビの前に坐っていた。

だから俊之も中学生くらいになってからは、女の子と会 う予定のある日は母に言ってニンニク抜きのものを作るよ う頼んだ。けれどそんなことを重大に考えたことはなかっ たし、たとえば母にそう頼む度に俊之が胸を痛めていたな んてことはちっともない。

そういった、いわゆる「世間」に対する気遣いみたいな ものは他にもたくさんあって、それは俊之もごく小さなこ ろから感じていたしあたり前のこととして受けとめてき

た。

たとえば学校の名簿の問題がある。

小・中学校は公立だったから勿論、高校でも入学の際に
戸籍の提出があった。戸籍の名は韓国名だが、それでは S
ろいろ不便なので名簿などでは通名を使わせてもらう必要
があった。小学校と中学校のときは母が学校まで来てその
手続きをしてくれたが、高校のときは俊之が自分で学事担
当の教師に言い、事務室に行って手続きをした。

教師も事務員も別段驚きもせず、「ああ、そう」と言っ
てごく事務的にやってくれた。だからそれを特別なことと
思っていなかったし、それこそ自分の「事情」によって
派生する小さな面倒という認識を持っていただけである。

いうなれば俊之は自分にとっていちばん自然にものごと
を進められるように、現実に即して暮らしてきたにすぎな
い。
けれどそんなふうに「あたり前のこととして受けとめて

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人に言った憶えがある。

考えてから、俊之は思わず呟いた。 「あれ:

が顔をあげて俊之を見る。
「あれえ 俺やっぱ隠したい と思ってんのかなあ

もうよく判ンねえよおッ」
天井を向いて頭を掻きながら俊之が叫ぶように言った
ら、スンジャがくすりと笑った。
「あー、笑うなよオ、俺マジなのにイ」

わざとスンジャの方に顔を近づけるようにして言うと、
スンジャは下を向いて肩を震わせながらクックッと笑い続
けた。あんまり長いこと笑っているので「何、そんなにウ
ケた?」と言ってみても、スンジャは下を向いたままでい
る。そうしてスンジャはやがて顔をあげながら手の甲で乱
暴に目尻のあたりを拭った。泣いていたのだった。
「......どしたの」

顔から急速に笑みを消しながら俊之が訊くと、スンジャ
は眉間を手のひらでこすった。
「や、あんまし笑いすぎてさ......」

そうスンジャは言ったが、鼻の頭がまだ赤い。睫毛が少
し濡れている。

それからスンジャは頬杖をついてまた窓の方を向き、ぼ つん、ぽつんと話しはじめた。

「そしたら?」
「......あたし、知ってるもんだと思ってたのよ」
「え?」
「知ってる」の意味がよく判らなかった俊之が訊き返す
と、スンジャはいきなり早口になって言った。
「だって普通に考えても名前聞けば判るじゃない? それ
に仕事で記事書いたりするときもチェ・スンジャってカタ
カナで入れてるんだよ。あたし自分が書いたの載った雑誌
は彼に見せたしさ、それにみんなあたしのことスンジャっ
て呼んでるんだし」
「彼、知らなかったの?」

驚いた俊之が素頓狂なほどの声を出すと、スンジャは黙
って頷いた。
「彼、あたしン家来たことあるんだけど、ほらウチの表札
って『安藤善子・順子』ってなってるでしょ....。 スンジ
ャっていうのは渾名で、それをもの書くときに使ってるん
だと思ってたらしくって.....」
「えーッ」

俊之は叫ぶように言った。
「そんなコトって、あるの?」

思わず素朴な疑問を俊之が口にすると、スンジャはもう 涙から復活した顔になって真剣な表情で深く頷きながら答 えた。 「あるのよオ」

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