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あまり効果はなかった。

その内に気づいて舵板にかけたロープを緩めました。そ の方が波がきた時体を浮かせて逃れられ水を飲まずにすみ ます。しかしそれでも加納さんは波に向かって体を支えら れず、ローブのたるみがかえって仇でそのまま水の中に落 ちかけ、その度手を延べて支えましたが、その内うわ言み たいに、 「帰ったら、みんなに、よろしくな、な、女房にも、子供 にも、いってくれ」 「なにをいうのよ、このまま朝まで頑張るんですよ」

回してあるローブをとらえ体を揺すぶるようにしていい ましたが、それから二度三度大きな波が打ちこんできた

「俺はいい、俺は、もう、いいよ」

つぶやくようにいうと、その後とりわけ大きな波が襲っ
た後、自分でしたのか、ローブがゆるんでしまったのか、
輪の中から抜けて水に滑り落ちもう姿は見えませんでし

た。

午前五時二十五分のことでした。

加納さんの分のローブを足して自分の体に回したが、し おえた後突然、今ここで自分がとうとう一人きりになって しまったということを覚りなおしました。不安とか恐ろし S とか い うより、叫び出したい まうなどうにも切ない気分

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ら、まったくなにも思いつけなかった。

しばらくして、後どれほどしたら周りが明るくなるかを
考えてみました。六時過ぎとすると後一時間たらずはこう
していなくてはならない。その小一時間が勝負だと、勝手
にいい聞かせていました。

しかし夜が明けたとしても、近くに巡視船がいる様子は
なかった。船体がうねりに持ち上げられる時、ロープをた
ぐって体を持ち上げ、ずり落ちぬよう逆さになっている舵
板にしがみつきながら何度も周りを見回してみたが、船の
灯りは目に入りませんでした。

とすれば夜が明けてもさらにこのまま待たなくてはなら
ない。問題は船がこのままずうっと浮いていてくれるの
か、海がさらに悪くなって船からふり落とされることには
ならないか。暗闇の中で目と耳を澄ませて周りをうかがっ
てはみたが、強風の下にさらに時折凄い突風が吹き過ぎて
いくのはわかったが、シーアンカーで沈みかけたまま船が
なんとか風にむかって立ってくれているので、水船のせい
もあって浮いている時のような激しいピッチングはなく口
ーリングもあまりなかった。

加納さんのローブをたぐりよせ体を二重にジッヘルした
ので、船が浮いている限りたとえ死んでも体だけはこのま
ま船に繋ぎとめられてみつかるだろうと思ったら、妙なこ
とにその瞬間だけ気が楽になった。
もう一度時計を確かめたらまだ十五分しかたっていなか

った。そしてふと、自分と同じようなこんな目にあったヨ
ットマンは他にいるだろうか。いたとしたら、どんな風に
思いながらいたのだろうかと思った。そしてまた、海での
ことは知らないが、山ではこんな風に一人崖の途中にひっ
かかって遭難し、風や雨に晒されながら何日も救けを待っ
ていた奴がいたはずだとも思った。しかしそれでどう気が
楽になるものでもありませんでした。

やがて辺りが白みだし、巨きな波の姿、というよりその
気配が形になって感じられだしました。はずみにふと上を
仰ぐと、空の方は波間よりもとうに明るくなっていて空の
青さが感じられました。

しかし完全に夜が明け周りの景色が見えてくると、いっ
そ夜のままでいた方が良かったと思うくらいのものでし
た。時折肩に感じる日の光なぞなんの支えにもならず、蘇
った明りは私の今いるところが何なのかをまざまざと明か
しだしていました。

通り過ぎた強い低気圧にむかって強烈な、おそらく五十
ノットを越す西風が吹きこんでい、海には波高十米を越す
波が一面に沸きたち荒れ狂っていました。うねりに持ち上
げられ波の頂点に上った時眺めわたす海は、低いなりにも
船のデッキの上から見るのとはまったく違って、覆った船
の底に縋りついている私などにまったく関わりなしに見渡
すかぎり一面に真っ白に沸きたち流れていました。巨きな
波の一つ一つが にか異形でどでかい獣のように身をくね

らせて押し寄せ大きく長い職を振りたて吠えている。

その中では私の存在なんぞ彼等の目にもとまらぬちっぱ
けな、というよりもはや無いも同然のものでした。なにか
の映画で見た、巨大な野牛かなにかが荒野一面に溢れ蟲き
ながら過ぎていくのを、どこか岩陰か木の枝にすがって固
唾を飲みながらただ眺めている、そんな気分でした。

高い波の谷間に落ちた時はまだ気持ちが支えられました
が、うねりに持ち上げられ波の頂上に立たされると、吹き
荒ぶブローが地吹雪のように波の飛沫を撒き散らしながら
襲いかかって顔を刺し顔が上げられない。思わず後ろにそ
らして見る目に、突風はか黒い波の谷問にまでちりめんの
ような白い飛沫の網をひろげてかけ上がっていき、その波
の背から頂上の彼方に飛沫の壁を立て、さらにその上に鮮
やかな虹をつくっていました。

波の来る度に虹は立っては消え、消えてはまた鮮やかに
獣の王冠のように輝きながらかかっていました。それは美
しいがなんとも不条理な、今こうやっている私が眺めるに
はまったく不似合いな光景でした。

突風に乗って顔を刺すしぶきの痛さと息苦しさに比べれ
ば、間が悪く船に向かって崩れかかる波頭の方が、その度
息を溜めてやりすごせばまだ我慢が出来ました。船は微妙
なバランスでかろうじて浮いてい、そのせいで過ぎていく
波に対してあまり抵抗にならぬのか、船全体にかぶさるよ
うにして襲う波はなかった。つまり船もその上にとり縋っ

五センチ長さ一米六十センチほどの長方形の穴が空いてい
て、キールを止めていたボルトがむしりとられその穴と周
りのファイバー・クラスがぎざぎざにささくれているのが
見えました。

ぞっとしたのは、波をかぶる度その穴から海水が中にむ
かって流れこんでいて、穴の中に誰かの赤い 合羽と授袋が
水に浮くようにして見えていた。そしてその横にどういう
訳か缶ビールが一本浮いて漂っていました。

ということは、船は見えているキールの穴とは違う他の
部分に浮力を持って浮いているのであって、その浮力がこ
の穴から失われていけばやがては沈むということです。船
がやや前に傾いた感じで浮いているのを見れば、あるいは

梁天記 古井由吉

新潮社版

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生・老・病・死―人世の諸相を自 在に往還し、いま・ここの微細な 壊を照し出す文体の魔術。うつろう 季節の中、日々の営みの深淵に踏み 入る長編小説。定価1900円(税込)

日が上ってから一時間たらずの時、ふと目を上げると西 側の海を一マイルほどの所を船が、「あかね」だったので しょう、あきらかに巡視船の姿の船が過ぎていきました。 私が目にした時すでに船は十時の角度を北上してい、舵板 にすがって夢中で手をふったがなんの反応もなかった。お そらく日が上ったばかりの海で、私が彼等の東側にいたた めに逆光で視認出来なかったのでしょう。 「あかね」が波のむこうに消えていった時、私は妙な気分 でいました。落胆と、その一方やはり自分は探してもらっ ているのだという安堵と期待、それを自分にむかってどう 説 S てい い のかわからなかった。顔の部分が急に暖かく感 じられ、気づいたら涙が流れていたが、それがなんの涙だ ったのか いまだにわかりません。しかしだんだんに体中の 力がぬけていって、波の合間にしゃがみかけ、なぜか手元 の時計ばかりを眺めていました。

その内ふと気づいたら、目の前のキールの穴の中に浮S
ていた缶ビールが漂い出て海に転げ落ちた。思わず手を延
ばしてつかもうと思ったがちょっとの間合いで出来なかっ
た。遭難の最中にビールかと思ったが、そう思ったらまた
さっきの喉の渇きが戻ってきてたまらなくなった。

しかし突然気がつきました。穴の中で浮いていた缶ビー ルが外に流れ出したというのは中の水位が少し上がったの

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