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饗庭孝男

不滅』ミラン・クンデラ(菅野昭正訳)
れた時を求めて』は、筋という時間の軸にこだわらず、その
「内面」にかかわる無数の回想、挿話、風俗や社会的事件、
さらには美術論を、大小さまざまな渦巻のように入れている
点でワーグナーに似ているのである。また時間性によらず印
象の度合いに応じて回想や出来事を配置するところなど、十


七世紀のセヴィニエ夫人の書簡文学の形式だが、内実は多元
的なサドの作品に似た展開であり、大枠はワーグナー的なと
ころがブルーストであろう。あるいはクンデラの『不滅』の
中の一人、ローラが熱愛するマーラーにも似かようところが
ある。

しかしクンデラの小説はブルーストのような「内面」の大
伽藍の有機的な構造という趣きではなく、ワーグナーのよう
なスケールでもなく、たとえれば室内楽に見たててもよい。
この曲種もまた十八世紀の後半に成熟の域に達したのであ
る。それは競奏もしくは協奏という幾つもの器楽に加え、何
よりも複雑に表現しなければならなくなった人間の「内面」
にある多様な思考や感情の、陰影に富んだ様相を、多くの変

孤独のうちに亡くなった父の生き方に惹かれ、その墓のある
スイスに いき、自殺か事故死か分からない死に方をする。彼
らの一人娘、ブリジットはロックが大好きで奔放な生き方の
末、同棲相手に捨てられ、子供を連れてボールの元へ帰って
くる。ボールはベルナールと別れたローラと再婚して赤ん坊
が生れる。

筋は右のようだが、それは七部構成のなかに一貫してあら
われるのではなく、所々に浮上する。他方、この主旋律を背
後から支えているのが第二部に登場する晩年のゲーテと、彼
を愛したと称して自己顕示をし、「歴史」の中で不滅になろ
うとするベッティーナ・ブレンターノとの物語である。この
女性の「愛」によって誤解と歪みを与えられ、増幅されたゲ
1テの困惑は、同じく多様な思い込みの多い伝記によってそ
の生涯に歪みを与えられたヘミングウェイの困惑と共鳴し
て、あの世での会話となっている。作者によれば、「不滅」
をねがう自己顕示者は、どういう凡人でも可能であるから、
ベッティーナとローラは同じ種族に属するのである。

したがって第三部はこのベッティーナの変身というべき。
1ラの無軌道な生活がアニェスと交錯してあらわれ、第四部
はベッティーナ擁護のリルケやロラン、エリュアールのテク
ストを通しての感情が価値を生む「ホモ・センチメンタリ
ス」が語られ、第五部ではアヴェナリウス教授と作者の「私」
の小説論議、そして第六部ではルーベンスという男の女遍歴
がカザノヴァ風に語られるが、そのなかで黒眼鏡をかけた「恥
じらいある」女性こそアニェスであったという落ちもつく。

的な心性とのつながり、ひいては彼の「文化」や「歴史」感
覚との結びつきはどうか、ということが問われなければなら
ない。この小説ではアニェスやボールがパリに住んでいた
り、スイスに死にに行くということはさして問題ではない。
彼らは一向にフランス人的ではないからだ。しかし他方クン
デラの思考はチェッコスロヴァキアやブラハの「文化」に生
な形で根ざしているのではない。この小説で明らかなのは、
彼のアイデンティティが出自のトポスに直接かかわるのでは
なく、それを思考の軸としながら、ヨーロッパの枠組みの中
で、かつての「歴史」主義 (イデオロギー)と、現在の「文
化」(イマコロジー)の双方が持つ問題性のなかに息づいて い
るのである。

前者はソヴィエト支配による「文化」抑圧の「歴史」主義
であり、非個性化の道筋であり、後者は、ラジオやテレビの媒
体を通じる「文化」の非個性化の道程である。クンデラはこ
の双方を批判しているといってよい。「戦争」と「文化」と
の結びつきがヨーロッパの「歴史」を形づくってきたことを
認めながら、かつまたイデオロギーの終焉がイマゴロジーの
はじまりであることを指摘しつつ、彼はこのイマゴロジーが
隠された第三の権力として政治の動向にかかわっていること
と、映像のなかに示される悲劇が見るものに娯楽となり、全
ては最終的に遊戯に移行する点を鋭くついているのである。

いいかえれば「文化」の「耐えられない軽さ」が悲劇の終
とともに出現しているという。クンデラは、東欧のイデオ
ロギーの支配をうけた「文化」の悲劇の体験を逆のバネとし

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者たちが人間そのものの非還元性を擁護した」と語り、さら
にャナーチェクの音楽をさして「純粋で裸形な表現でないよ
うな全ての音を排除したかった」とのべたことは、単に芸術
論ではなくて、そのままに東欧全体にのしかかっていたソヴ
ィエトの全体主義への反措定を示しているのである。

とのように読めば、冒頭でのべた形式へのこだわりの意味
も見えてこよう。さらに彼が東欧ユダヤ文化の悲劇を東欧の
民族になぞらえるとき、なぜカフカの深い構造をもった小説
の働きに共感するのかも理解できる。このクンデラの意向を
よりグローバルに語ったものが一九八三年に書いた「誘拐さ
れた西欧」であろう。彼が東欧における「西欧性」の根差し
を指摘しながら、それを中央ヨーロッパの性格とし、ロシア
(ソヴィエト) 全体主義が懐疑する自我の近代性をもつ西欧性
へのラディカルな否定であると見ている点は、先にのべた
「非還元性」の問題と深く通底しているのである。

クンデラが「中央ヨーロッパ」の小民族のたえざる不安を
危機から発想しながら、「ポーランド いまだ滅びず」と い う
国歌を例に、大国家間にいる小民族をその「西欧性」とむす
びつける時、滅びざるもの、いいかえれば「不滅」なるもの
の意味が明瞭となろう。

彼の思考の重心は、国家論よりも、それをバネとした「文
化」論におかれているのである。彼の形式へのこだわりもそ
こにあるとすれば、この『不滅』は、芸術論をこえてまこと
に「文化」の深部に根差していると言わなければならない。

(集英社刊・二六○○円)

『江戸と悪――『八犬伝』と馬琴の世界』野口武彦

Sち『八犬伝』からの引用はしないが、攻め 込む側の両管領軍の総勢約十一万に対して、 迎え撃つ里見勢はわずか三万四千だった。し かし、銘記せよ、『正義』はつねに勝つので ある。言いかえれば、『仁』に打ち克つ『不 仁』はついにないのである」と。この文章が 書かれたのが、たぶん一九九〇年の早い時期

ことを銘記してもらいたい。つまり、
湾岸戦争の勃発前であることを。

しかも、この対管領大概争は、戦争相手を
決して,殺さない」 という、まさに「仁」そ
のものを実現する戦争なのである。「この少
年武者(犬江親兵衛のこと――引用者註)の
帰参以来、里見軍のたたかいは『仁』戦にな
る。なにしろ、敵兵をひとりち殺 さ な い の
だ。戦場でたまたま死んでしまった兵卒で

親兵衛が持ち合わせていた妙薬でたちま
ち生き返るということになっている」「ま さ
にこれは、『仁』のイデオロギーとでもいう
べきか」と野口氏は書くのである。

私たちは湾岸戦争の「戦中。において、ブ
ッシュ大統領がこれは「正義の戦争」である
と言明したことを知っている。それは「義」
のために侵略軍を打ち払う戦争であって、
「仁」(人道主義)のために非戦闘員は一人と
して殺してはならない戦争だということも。

刊行の時期はそれぞれ湾岸戦争の戦前"と
戦後"とに二分される。いわば、この書物
は「一身にして二世を経て」いるのだ。「『仁』
の千年王国」で、野口氏は長大な『八犬伝』
の後半、いわゆる対管領大戦争をめぐってそ
の読解を進めている。通常、『八犬伝』は、
八犬士たちが集合団結するまでの前半の銘々
伝に較べ、後半の対管領大戦争は冗長で退屈
という評価が定着しているが、むしろ作者馬
琴にとっては、この後半こそが彼が世界原理
として抱いていた「党政朱子学」の思想原
理、「理気二元論」を踏まえた「勧善懲悪」
の原理を貫徹させようとする試みにはかなら
なかったのではないか。つまり、馬琴にとっ
ての思想的な意味はむしろその後半部におい
て実現されていたと考えるべきなのだ。

野口氏は書いている。「『仁』の王国は、
『不仁』の侵略軍を一手に引き受けなければ
ならなかったのである。煩をいとって、いち

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