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ある。

戦争を書き継ぐことの意義だったの
もちろん 馬琴はそれが現実の世界に実現で
きるものだとは、一度も考えたことはなかっ
ただろう。人獣が混淆するような現実社会で
は、人が仁を行い、獣が悪や不仁を行なうと
いった「名詮自性」や、悪が滅び、善が栄え
るという「勧善懲悪」は、むしろ逆になる場
合のほうが多いことを馬琴はそのリアリズム
の眼によって見据えていたのだから。

曲亭馬琴は大きな物語〉が壊れた時代だ
からこそ、そこに「『仁』の千年王国」を実
現するような物語を営々と書き続けてみせた
のだ。馬琴のブレモダンの世界(時代)は、
そのままポストモダンの世界そのものであ
る。だから、馬琴は対管領大戦争において、
まるで百五十年後の湾岸戦争を予見したかの
ように(そのパロディーであるかのように)、
戦死者の一人もいない戦争、「仁」を実現す
るための「不仁」の究極である戦争という、
きわめてアクロバット的な論法の戦争を描い
てみせたのである。(江藤淳氏は私との対談
の中で、館山や行徳や国府台が最前線の
の里見軍と管領軍との戦争も、また東京
湾、岸戦争であることを指摘した)。

馬琴が『八犬伝』を書いていた江戸の末 期、時代はもはや朱子学という官許の学イ

デオロギーがほとんど終焉に近い行き詰まり を見せ、いわば思想・原理の「空前の空洞化 状態を現出していた」。むろん馬琴はその主 観においてはもう一度、朱子学的な原理を再

築し、「勧善懲悪」という道徳的、倫理的 な徳目を再興しようとしたのである。しか し、馬琴はその本名解"の名詮自性のよう に、結果的にはそうした朱子学的原理を解 体。し、官製の道徳観、倫理観から人々を "解放"する精神的役回りを果たしたと い う べきなのだ。つまり、馬琴の精神世界の片隅 にひそむ「悪」が、主観としての彼の勧善懲 悪思想を裏切っては、その作品世界にブラッ ディーで、悪趣味ともいえるような場面やェ ピソードを書きつけさせていた。それは朱子 学的な原理からはみ出すような「悪」であ り、それはプレモダン=ポストモダン的な世 界にあって、無数の〈小さな物語〉を編み出 させる原動力にほかならなかった。巨悪はな い。小さな物語、小さな悪こそが、私たちの 世界を活性化させ、文学のテーマを提供して くれる。野口氏のとらえたのは、そんなボス トモダン時代の馬琴であり、イデオロギーの 崩壊した世界の思想の在り方という、現在』 の問題だったのである。

(角川書店刊・二000円)

いいのに」と考え、夫もまた、「(お腹の子が)

アルマジロならいいんだけどな」と言ってい 澤 實 ることからもそれを感じる。

結局、胎児は、生まれないまま小説は終

る。この小説全体が、カリンちゃんの夢であ
『縄文流』杉山 庵治 るとも読めるし、胎児の夢であると読むこと
与えていると思う。

もできるかもしれない。
全篇にわたって詩の匂いに満ちている。 だから、この小説の中の幻想的な描写を読
「蚊には宇宙線のように漠と窓ガラスを擦り んでいて、それが警備員の夢であったとオチ
抜けてきたようなところがある」「やっばり、 をつけられると、いささかがっかりする。
結婚式の食事は、棒高跳選手がバーを越える 「巻を背負った8匹の胎児が思い思いに カ
時に見る青空のようなものでなくては、と」 リンちゃんの乳を殴り続けている」景が異様
目を覚まさせてくれるような文章が散見す で鮮やかなだけに残念なのだ。
る。比喩の魅力である。例えるものと例えら 子供を生んだカリンちゃんにも会いたい と
れるものとの距離が、その魅力を生みだして 思う。人間がアルマジロを生むよりも、人間
いる。

が人間を生むほうが、ずっと無気味で不可思
先に述べたように、この小説は、夫婦の生議であると思う。そのとき初めてカリンちゃ
活が描かれているのだが、夫には名前がな んは他者と出会い、夢は砕けるのではないか。
い。あくまで、「警備員の夫」なのである。 「縄文流」という題については、「縄文流に
警備員の描写がなされる際も「夫である警備 生きているカリンちゃんにとって、帰ると思
員」と書かれる。警備員の描写も、妻カリン った時が帰る時なのだ」という一文がある。
ちゃんの幻想とも読めるように書かれてい 帰ると思っても帰ることができないとき、新
る。夫は妻の影である。カリンちゃんは、 たな「縄文流」が始まるのだと思う。
「いっそのこと、アルマジロでも生まれれば

(新潮社刊・一四〇円)

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どの地に履歴をかさね、年若な中国人の後妻
とのあいだに一子をもうけ、宗旨を問われる
と躊躇なく「うちは儒教です」と答える父親
の背後に、いくつもの横穴を走らせて得体の
知れぬ暗渠のように広がる記憶としてあらわ
れ、後者は、その父親が、「平気で理の均整
をくずして官能に溺れる文化」の象徴として
嫌う「ひらがな」の国の、湿りくねった内臓
の蠢動にも似た誘惑として繋ぎとめられよう
とする。わけても、食事の場面に決まって書
き込まれる排泄のイメージから、腸管に似た
「しんしゅく」への至福の予感、その入り口
に喚起される「公衆便所」へと連なる後者へ
の執着は、それが厳しく抑制されてある分、
かえってただならぬものを思わせる。だが、
この少年も作者もまだ、肝腎のその至福のは
んのいぶくかにたつにすぎない。

おそらく、彼の手が今後、主人公の父親
の強いる「理の均整」にも似た抑圧的な節度
をはみ出して、ここにほのみえるアジアの記
億と「しんじゅく」とのなまなましい交合を
全編に溢れさせるとき、わ は真に貴重
な作家の誕生をみることになるだろう。

(講談社刊・一四○○円)

瞬、「何年も歩きつづけて、ようやくここに
たどり着いた」という感慨を抱くこの家出少
年じしんもまた、「さまよえるユダヤ人」の
物語に、みずからあっさりと収まるかにみえ
るのだ。すなわち「かれは絶対に違う!」
(傍点原文)という何語にも翻訳しがたい
「訴え」を口籠もる少年を描こうとしなが
ら、端正な日本語が問の良い場面転換のはざ
まに抑制の効いた哀感をにじませる一編はそ
のじつ、いわば一弗三百六十円時代の電通的
な物語の節度を彷彿させてしまうのである。

にもかかわらず、同時に、確かにこの作者
は「違う」と感じさせるくだりが散見し、そ
こにはふたつのポイントが絡んでいる。編中
もっとも充実した表題作中に切れ切れに露呈
するアジアの奥行きと、主人公を「しんじゅ
く」へと引き寄せる一種スカトロジックな飲
望の感触とがそれである。
前者は、上海、香港、プノンペン、台北な

丹生谷貴志

『コベルニクス博士』ジョン・バンヴィル(斎藤兆史訳)

琴線がつまびかれた」、といった具合であ る。訳者も指摘するように、ここには色彩を 巡るテマティックな文体への自覚的な試みも あるのだろうが、この比喩いっぱいの文体が 文章に感覚的喚起力を与えているかどうかは 読者の趣味による。ともあれ、その意味的倍 音の多い文体と、微細な挿話が圧縮して絡ま る展開の早い叙述ゆえに読者は読み飛ばしを 阻止され、或る苛立たしい拘束状態に巻き込 まれることになる。ポストモダンという言葉 に軽さを期待する読者はこの鎖を引きずるよ な神経的重さに戸惑うことになるだろう。

はがね

訳・工作舎)『ニュートンの手紙』『メフィス ト』等によって、発表する作品のほとんど が何らかの賞の対象となる作家の一人となっ た。因みに本書は十六年前、七十六年の作品 である。 『コペルニクス博士』は題名のとおり、近代 天文学の祖ニコラス・コペルニクスの生涯を 描Sた「伝記小説」、続編『ケブラーの憂鬱』 は叙述法そのものに天文学的構成や時間系列 の入れ子が仕組まれた如何にも「知的」な作 品で、本書でもすでにその片鱗が伺えるが、 全体としてはむしろオーソドックスで重厚な 仕上がりである。まず驚かされるのは、ほと んど時代錯誤的なバンヴィルの「美文」だ。 心理や情景は直接叙述されることはなく、 常に何らかの色彩を伴った感覚的 比喩表現 が捜し求められる。たとえば、「悲しみは胸 の片隅の灰色の齧歯動物の姿をして い た」 「そんな時、彼の体内では至福という銅色の

何よりもまず形式だ、とバンヴィルは強調 する。文体における形式、構成における形 式、主題における形式......。言い換えれば、 根拠のあるなしにかかわらず或る(美的)形 式を世界に対して構想すること、これが彼の 作品の主題であり、或いは彼の作品そのもの であるだろう。存在しない架空の妹を追い続 ける男の物語という、「空虚な」追跡小説も 書いている彼にとって、天文学はまたとない 「純粋形式の世界」として手にされることに なる。天文学は人間が構想したもっとも無根 拠で壮大な形式に他ならないからである。 「宇宙は人間によって理解され得る、これが

にい

狂気なのではなくて「不在の妹」を発明する ことであるだろう。同じく、天文学は別の 「不在の宇宙」を発明 す る人間的形式の力な のである。ここに新しさがあるとすれば、バ ンヴィルにおいて不可知という契機がもはや 形式化に対する否定的契機として作用するの をはいいけ止めているという点であるだろ う。あらゆる形式化は彼にお い て、「絶対」 とは無縁の自律的空虚な賭であり、一種の 「美的」力として提示されようとするのであ

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ある。敢えてパンヴィ をポストモダンと言
い得るとすれば或いはこの意味においてだろ
う。人間の世界は空虚で無根拠な形式的編み
物以上でも以下でもない。しかし、形式であ
か限か かい、それはまさに世界そのもので
もあり、或いは世界の発明そのものでもあ

べてその発明の内部にい
かいない。その時、形式化の営みの中に到達
不可能な至高の「外部」はその輪郭を失って
蒸発し、或いは絶えず形式化を脅かす形式化
不能の「物自体」も意味をなくし、知る者と
知られるもの、知と不可知との二元論は意味
を失い、ただ絶えず「空虚に」自身を発明し
続ける知の形式的「大ゲーム」だけが残る。
形式が還元されるべき外部がないのだからも
はや現象学が問題となることはな 「だ
「発明」だけが残されるだろう。それを 意
性の中に分解された世界のニヒリズムの様相
と取るか、開かれた「形式的美的」な励ま
しと取るかは......読者の体調にかかってい
る。ともあれ、かたか「世紀末的」形式主義
美学の秀作である。

(白水社刊・一九〇〇円)

『ケブラーの憂巻』の訳者はバンヴィルの主 題設定に、あらゆる表現形式と世界の絶対的 無関心との間の乖離の中で言葉を失っていま ふた男を主人公にしたホフマンスタールの書 簡体の小品 『チャンドス卿の手紙』の残響を 指摘している。その続編とも言うべき『帰郷 者の手紙』を含めてバンヴィルには明らかに その残響、或いは「引用」が認められる。そ してしかし、ここでも、形式と物自体との乖 離において形式を失う十九世紀末的な者たち にではなく、その乖離においてこそ形式化を 編み出し続ける者たちへと彼の視線は集中さ れる。形式化という空虚な営みへの苦さを含 みながら、しかしバンヴィルはそれを力の至 福に欠けてはいない営みとして描き出すので

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