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うした行為に、いっそう拍車をかけてきたのが芝中の連中 であった。

芝中学校は麻布とちょうど東洋英和と同じくらいの距離
にあり、お互いに彼女を狙う競争相手と言ってよかった。
本当に彼女らの争奪戦をやったわけではなかったが、心理
的に彼らは敵であったのだ。英和の前を通るとき、私たち
はよく彼らの集団と出会ったものだ。そして、不良がかっ
た連中はお互いにガンづけをした。ガンづけというのは、
相手の目をじっと見すえ、「やろか!」という意志表示で
ある。
「おい、お前、いまガンをつけやがったな。なにかおれの
顔についているとでも言うのか?」
「なにを! 貴様のほうが先にガンをつけやがったじゃな
いか」
ほとんどは、このような些細な口論で終った。
だが、本当に私を喜ばせたのは、彼らとの出入り、決闘
による勝負であった。双方の不良仲間が日時と場所を打ち
合せて戦うのだ。

そろそろ短期間ではあったが、勤労奉仕、勤労動員とい
うものが行われていた頃だったから、この喧嘩は教師には
絶対に知られてはならなかった。なにせ教練の教官が校長
よりももっと巾をきかせ、威張っていた時代になっていた
からだ。登校するにもゲ ートルを巻き、教官のみならず普
通の教師と出会っても、軍隊式の挙手の敬礼を強要されて

だったから、もっとずっと蛮カラじみた者が多い芝中には どうしても勝てなかったのだ。

私を除いた麻布の連中の大半は、鼻血を流したり、なか
にはお岩のように不気味に顔を腫れあがらせて、しおしお
と帰途につくのだった。

凱歌をあげた芝中の連中が、私たちの後ろ姿に罵声をあ
びせかける。
「おーい、麻布の軟派野郎! もうちっとは手ごわい野郎
をこの次は連れてきな」
「負けたなら、もうこれからは英和の前をうろちょろする
なよ」

事実は、麻布と英和は姉妹校であって、麻布の生徒のは
うがまだもてたのだ。芝中の連中と分ると、女学生たちは
初めから敬遠したことも確かにあった。けれども、肝腎な
喧嘩に負けてしまうことは、女学生にふられるよりもっと
口惜しかった。

私は確かに敵を一人は倒した。しかし、二発くらい頬に
くらっていて、そこがずきずきと痛んだ。そんなことより
も、だらしのない仲間が歯がゆく、情けなくって堪ら
った。私は頬の痛みをこらえながら、無言で地面を見つめ
ながら歩いた。
「敗軍の将、兵を語らず」

と、心の中でつぶやきながら。 しかしながら、あれはまだ平和な時代の子供さながらの

で、中にはものものしく防空頭巾をかぶり、非常用のバッ クを肩から吊している者もちらほらしていた。

私は道玄坂の映画館へ行くつもりだったが、そこには行
列ができていたので、もっと上の百軒店まで登って行っ
た。そこは渋谷駅界隈とは打って変って、ものさびれてい
た。どの建物も爆撃を受けたわけでもないのに、まるで住
む人が死に絶えたようにひっそりとしていた。道には紙片
が散乱し、いかにも戦争末期の殺伐とした感じが否め
った。

細い坂を登りつめた奥に、前にも二、三度きたことのあ
る映画館があった。たいてい古い時代劇を上映する館で、
木造の建物からして傷んで古ぼけていた。この日も果して
客が少なかった。私は映画の途中から入ったのでよく分ら
なかったが、期待していた勇ましい活劇ではなく、「軍国
の妻」という戦争謳歌の映画なのであった。上映が終って
うす暗い客席を見ると、四分の一も客が入っていないこと
が分った。その半数が、粗末なスブリングのきしむ席を立
って、入口に向おうとしていた。

私は閑だったから、大して面白くはなかったものの、次
の上映時間まで待ち、見損ねた映画の前半を見るつもりで
あった。夫が出征した留守を守る女優が若くてなかなかの
美女であったからだ。

そのときである。私は通路のすぐわきの席に腰かけてい たのだが、前方の通路から一人の少女がこちらに歩いてく

だ。

少女は真直に前を向いて歩き、道玄坂へ出るとそのまま
渋谷駅の方角へ降りはじめた。映画館を出るときには多少
の人波にまぎれていたが、今は一人になったその横手に私
は追いついた。

しかし、生れてまだ経験したことのない訳のわからぬ羞
恥心が、私にその横顔を盗み見ることさえもためらわせ
た。

だが、やがて、これまた唐突な直感が私の混乱した頭に
去来した。この少女もどこかの動員学徒なのだ、と。

我知らず、私は口をひらいていた。まったく体験のない
ことと、唐突な衝動が、私に次のような乱暴な言葉を吐か
せた。
「おい、お前、女学生なのだろ? どこの工場へ行ってる
んだ。今日は電休日じゃないはずだ。昼間からさぼって、
くだらん映画見物か?そんなことじゃ、日本は負ける
ぞ!」

さすがに少女は、びくっと身をこわばらせて立止った。
そして、初めて明るい光の下で、その細面の顔をこちらに
向けた。

薄い眉の下に、黒目がちの瞳が大きく瞠かれていた。そ
の瞳は黒曜石に似て輝き、同時にうるんでいるようにも見
えた。形のよいほそい鼻梁。それから、小さなややふくれ
あがったような可愛らしいくちびる。なんという可憐さと

「いきなり乱暴な言葉をかけて御免よ。でも君は今、麻布 か芝と言ったね? 君は英和の生徒じゃないの?」

少女はまじまじと私を眺め、それから急に顔を伏せて、
かすかにうなずいた。
「そうか。......じゃ、あんな乱暴なことを言うんじゃなか
った。英和の生徒は、ずっとぼくたち晶屓にしてたんだ。
ぼくは麻布だよ」

私が中学校の名を言ったのは、カーキ色の工員服の姿だ
ったからである。

すると、それまでさすがに固くこわばっていた少女の表
情が急にゆるんだ。なんだかあえぐような声でこう言っ
た。
「そう、麻布なの。それで安心したわ。あたしたち、芝中
は苦手だったのよ。麻布なら、小林先生を知ってる、英語
の?」
「コバチュウのことか。太鼓腹の先生だろ? 三年生のと
き、ちょっとだけ習ったよ。でも、そのあとはずっと英和
のほうに行ったのじゃない?」
「確かかけもちで、麻布にもときどき行っていらしたはず
よ。あの先生はあたし好きだったわ。じゃ、あなた、この
英語を訳してごらんなさい。 “Free care coward to be
come me do not"」

英和はミッション・スクールで、開戦までの校長はカナ ダ人であり、英語教育も熱心だったから、さすがに彼女の

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