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「おーい、松子、待てよ」

信平は詫びるように声をかけ、ギヤをローに入れて松子
の後ろからゆっくりとついていった。
「怒っているのか」

すると、その声に反発するかのように松子は鋭い目で信
平を一瞥し、急に土手道を走りだした。
「おーい、松子」

信平はその後について車を走らせながら声をかけたが振
り向こうともしない。見ているうちに松子は拗ねた足取り
でバースに上がった。信平は草の中に車をいれ、ロックし

た。

小屋に近づくと松子が入口に立ってこちらを見ている。 信平の足がバースに移ると無言のまま背を向けて中に消え た。犬があとに続いた。不意にバケツを転がすような音が したかと思うと、小屋の中から黒い煙が噴き出した。犬が 吠えながら外に飛び出した。煙の下から赤い炎が見えた。 見るまに煙は赤黒い火に変わって戸口から溢れ出した。信 平は走った。中に入ろうとしたが、火の勢いが強くて入れ ない。トタン屋根を下から押し上げる形で屋根と壁の隙間 からも火が噴き出した。炎は横に走って外壁を舐め、雨に とどいた。すると、川面から風が立ち上がってきてひとつ になり、渦を巻いて屋根の上に駆け上がった。信平は腰が 抜けたように動けなかった。火の中に松子がいる。信平は 前に進もうとしたが、足がいうことを聞かない。

福永武彦全集

全20巻/新潮社版 定価各3090円(税込)

風土

塔草の花 3夜の三部作 の の心の中を流れる河愛の試み

加田伶太郎全集 ©渡市告別

忘却の河幼年 ◎海市

風のかたみ の死の島 (上) の死の島(下) の独身者夢の輪 8詩集象牙集 の別れの歌 遠くのこだま の枕頭の書秋風日記 の意中の文士たち 異邦の薫り の内的独白 一九四六文学的考察 のボードレールの世界 @ゴーギャンの世界 8藝術の慰め 彼方の美

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七夕さん

その地方都市の町なかに、おだやかな傾斜の山がある。たかだか標高二百六 十米であるにしても、山であることに違いはない。この山は、海路、フェリー で港へ近付く冲合から遠見すると、最も美しいとされているが、いまひとつ、 町の外を大きく湾曲して流れている大川に架った一キロもの長さの大橋を渡 り、対岸の堤防の上に立って眺めるのも、はるかな心地がして、なかなかい

い。

町なかにもうひとつ、こんもり樹が茂った城山が藻に囲まれている。山の樹 は一部が特別に保護されて、原生林になっていた。ツバキの樹が多い。この藻 のうちは手入れの行き届いた公園になっていて、小さな図書館や雅趣に富んだ 古い庭園がある。公園には、デーゴの樹や、この町のシンボル、ヤマモモが植 っている。

町には大川から厳れて流れ込んだ川が、幾筋かある。海に近い町で ら、夏はあくまでも暑く、冬は大川を越えてくる山脈から吹き降ろしの風が骨

いる緑色のハスラー、十ワットのアマチュア無線機TS五
二〇X、オールウェーヴラジオ、そして赤樫の重い素振り
用木刀、英文の数学パズル一冊といったところだった。

ハスラーは、父の友人からプレゼントされたものだっ
た。それまでは、屑鉄寸前のロードパルに乗っていた。な
さけない気持でいたら、ハスラーが来ることになった。ど
うせ、中古のボロがまわってくるものとばかり思っている
と、新品と変わらないバイクだったから、英樹は狂喜し
た。彼は高校三年時代、ラジオで数学講座を聞いて勉強し
たが、浪人になって、数学と物理を勉強するために予備校
へ通った。このときの数学の講師が、ラジオ講座時代の先
生だった。この先生は、ラジオ講座のほかに、東京都内の
方々の予備校で教えていた。英樹は分からないことが出て
くると、バイクに乗って、この先生をあちこちに追いまわ
して、教えを乞うた。めでたく合格したので、お礼と報告
に訪ねて行くと、寿司屋に連れて行ってくれて、ご馳走に
なった上、英文の数学パズルを贈ってくれた。一年間、パ
イクで尾けまわされて、印象が深かったのだろう。ハスラ
1は英樹の勉強、すなわち東京脱出に役立った。

TS五二〇Xは、小学校六年のとき免許を取り、貯金を
まとめておろし、足りない分は両親に無理を言って買って
もらった。北海道、沖縄との交信に成功した。木刀のこと
であるが、加納英樹は中学生になってから、剣道を始め

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