ページの画像
PDF
ePub

加納英樹は、祖父母の家から大学へ通いはじめると同時
に、新聞配達のアルバイトをした。東京の両親からの仕送
りは、充分でなかった。お金が溜まるまでは待てな い の
で、祖母に前借りをして、四輪の免許を取るために教習所
へ通った。この町は、バスの路線が通していたが、時間の
間隔があいていて、自由に動きまわるには、車が是非とも
必要だった。ハスラーでいいわけだが、雨の日には困る。

免許を取ると、祖母の妹、つまり大叔母の世話で軽四輪
のフェローマックスが手にはいった。もう一万キロ走って
いて、女性が乗り手であったにもかかわらず、どんな乗り
方をしたのか、あちこちがへこんでいるのでお金は要らな
いと言われたが、大叔母の面目をつぶしても悪い、と思っ
たので一万円払った。車を手に入れると、ついで、サーフ
ィンのボードを、これも中古で買った。ボードを屋根に積
んで、海へ行く。大学の同好の友人を乗せて、しばしば海
へ通った。山と空と海は青く、光は充ちみちて、ようやく
自分にも青春が始まった、と思えた。

その年の夏、加納英樹は高桐珠美に出会った。英樹の祖
母は、若い頃から茶と活花を教えていた。生徒は家へ通っ
てきていたが、町の青少年文化センターへ出かけて、教え
もしていた。この夏、文化センターで盆踊りの連を組むこ
とになった。英樹は祖母の言いつけで、頭数揃えで参加し
て、珠美に初めて会った。彼女は商業学校を卒業して、銀

習曲がある。その中に〈貴婦人の乗馬〉があって、これを 発表会のために暗譜した。当日、ピアノを弾いていて、突 然、眼の前が真っ白になった。上がっていたのだ。十秒く らいの恐ろしい空白がきた。その十秒が再び訪れた。気が つくと、英樹は、家へ帰り着き、ベッドに寝転っていた。

た顔は、夕顔のようだった。黒稿子の帯を締め、ねじりの
花緒の踊り下駄を履くと、英樹より背が高いように見え
る。四日続きの踊りが終わる夜、英樹は家へ帰る珠美を、
フェローマックスで送った。彼女はバスで、遠いところか
ら町へ来ている。見物客や酔いどれで雑踏する

翌年早々、英樹はフェローマックスを友人に譲り、従姉
からもらったミラージュに乗るようになった。十万キロ走
って、メーターはひとまわりしているが、入念に手入れを
して、いたわりながら乗った。一方、バイクのほうは、中
型の免許を取り、CBRの新品を買った。その地方にこの
車種は、一台しか届いていなかった。高価であったから、
新聞配達のアルバイトでは支払えない。両親には余裕が無
いと分っていたので、祖母に頼みこんだ。祖母は稽古用に
楽茶碗を買おうとしていた。茶碗は四○○。のバイクに化
けた。孫は可愛いものである。それに、孫が四輪に乗るよ
うになってから、生活は便利になっていた。出世払いとい
うことになった。

三月、新聞を見ていると、地元のラジオ局がディスクジ
ョッキーのタレントを求めている。もしかしたら珠美が自
分の番組を聴くことがあるかも知れない、という突飛な空
想をして、試験を受けに行った。英樹は証のない標準語を
話せる。キャラクターも面白い、ということで、いいとこ

いる。山の頂上から瞰すると、下界は一面、眩しい光の
海だろう。かつて、その光の海が空襲の猛火であった夜が
ある。やはり夏のことだった。英樹は自分の父が少年時
代、ここへ疎開してきていて、火の海を危うく泳ぎ抜けた
夜のことを知らない。自分の母が祖母に背負われて、町の
外で火を見ていたことも知らない。ただ、父と母は、お互
いこうした踊りの夜に出会ったのだから、自分もひとに会
えるのだ、と思っている。

四日間の踊りが終わり、英樹は最後の夜、珠美をミラー
ジュで、大川の袂のバス停まで送って行った。
「また来年......」

今年は英樹が先まわりをして言った。車は路傍に停めて
いた。珠美は笑ったが、ふと、息をとめて顔を寄せてき
た。脂粉の匂いがした。英樹は、蝶の翅で打たれたように
感じた。家へ帰ると、庭先で夜開草の花が月の光を浴び
て、白々と咲いている。加納英樹の祖父はその夜、ひとり
庭で踊っている孫を見た。

大学三年になった。アルバイト先のテレビ局で、ある 日、制作部長が英樹に、卒業後は東京へ帰るのか、と尋ね た。英樹は、帰らない、と答えた。大川の河口の沖合に壮 大な雲が湧き、夏が来た。その年、城山公園で異変が起き た。時ならず城址で、赤蜻蛉の大群が巨大な柱となり、青

駄の音だけが聞こえる。「また来年」は、もう無い。いつ までも無い。ハンドルを握りしめている手の間から、何か さらさらと、灰のようなものが膝にこぼれている。それは 青白く光っていた。英樹は焼き捨てた手紙を思い出した。 それも、また取り返しがつかないだろう。踊り下駄が鳴っ ていた。

英樹が家に帰り着いたのは、翌日の明け方だった。祖母 が眠らないで待っていた。

大学四年の夏、英樹は、もう一度、珠美に会った。CB
Rで、深夜の峠を飛ばしていて転倒した。左腕と鼻柱を折
った。長々と伸びていると、路面の地底から、哀切な踊り
下駄の音が聞こえてきた。その夜もしきりに星が降ってい
た。不本意だが、東京へ帰ろう、と決心した。

加納英樹が大学を卒業して、東京の会社に勤めだしてか
ら、早や六年になる。二十八歳になった。まだ独身であ
る。東京では、天の川は滅多に見えない。

(了)

[graphic]
« 前へ次へ »