ページの画像
PDF
ePub

ようなところがあったな。 田久保僕がそういう川端さんの眼で思い出すのは、長谷 のお宅に伺った時に、新聞の連載で川端康成の伝記を書い た記者の方が後から見えてて。あの時に、ボラロイドカメ ラを届けにカメラ屋が来たんですよ。かねて注文してあっ たらしいけど、箱に入った新品が届いた。それをカメラ屋 が「先生、こうお持ちになって」と渡して、使い方を説明 するんですね。そうすると、先生は一つ一つ真剣に頷きな がら、操作のしかたを開いて、それでまず僕と、一緒にい た「新潮」の坂本さんを撮ってくれるんです。今度は、記 者の方に渡して、撮ってくださいと言って、先生が真ん中 で、僕と坂本さんがはさんで撮って、それで、三人のほう を僕にくだすって、最初に先生が撮ったほうを、坂本さん に。いまでも大事にしていますけど。そのポラロイドカメ ラの操作を聞きながら頷いたり、実際に操作される眼が、 やはり対象はそんな機械ですけれど、ただの機械をこえて 向う側と闘っているような真摯な眼でね。そんなに一生懸 命になっていたら、身体がもたないんじゃないかって思い ましたね。僕なんかはそういう時、実にいいかげんですか

高井 誰でもね。しかも来客のあるところでは誰でも、い いかげんというか、雑にしてしまうことあるんでしょうけ どね。

う文体もあるんですね。しかし、少年のころから五十ま で、過ぎてみるとあっという間ではな い のかな。だから、 そのころの、かなり生々しいことは、五十ぐらいになって も憶えているし、書きたくなることもわかる気がするけれ ども。 高井でも、日記をそのまま手を加えないで発表するでし ょう。少年時代を小説に仕立てることは誰でもやるだろう けれども、あえてそうしないところに、目を引かれたです ね。 田久保かつて形態化したものをみたら、やっばりちゃん としたものだったということもありますね。『十六歳の日 記』もそうだけど。 高井田久保さんもそれはお感じになりますか。 田久保 ええ。つまり僕などは、自分があのころ書いたも のをいま見ますと、読むに耐えないから出さないですけど (笑)。『十六歳の日記』を読めば、ほかにもいろいろ早熟 な才能を発揮しているけど、何か表現のぬきさしならない 精気がありますね。 高井 うん。そうね。 田久保だから、後年出しても....。自分は出す気もなく て、人にすすめられて作品として出すようなこともあるわ けだし。

さっき「浅草紅団』の話が出ましたけど、あの作品僕は なかなか面白くて、まことに妙なところがある。川端さん

か踊りとかやる舞台になっていて、下は、大浴場なんで す。入ると、古くて、薄暗い。昼間だとおじいさんが一人 二人ぐらいしか入ってなくて、そこでのんびりして眺めて みたら、たしか六区のほうに向かって、すぐ裏手が元のカ ジノ・フォーリーなんですね。水族館の上にあった。僕は カジノ・フォーリーって知らないんだけど、ああ、このヘ んだったななんて思い出してね。 。 高井カジノ・フォーリーは戦災でなくなってしまったの ですか。 田久保あそこからエノケンなどのスターが何人か出て、 結局、駄目になっちゃったんじゃないんでしょうか。 高井スターのほうが偉くなっちゃって。 田久保多分そう。でも、川端さんは、『文学的自叙伝』 かな、そこにいる文芸部の人に連れられて、踊子と一緒 に浅草の六区を歩いて、食堂にものを食べに行ったり、あ るいは甘い物屋に入ったりするんだけど、自分は後から 黙々とついてくだけであったというように書いてますね。 高井そういうところが、やっぱり川端さんの独特なとこ ろなんだろうなあ。他の人の書いた浅草と違って。近頃の 感覚で浅草っていうとすぐ人情になってしまうような、あ あいう感じとは違いますね。田久保さんは前に、川端さん とダダとの関わりについてちょっと書いていらっしゃいま したね。僕は、そういう影響があるのだろうなと考えはす るけれども、『浅草紅団』はどうも、やっぱり世界に馴染

田久保 ええ。あれは小説的情景としては、いまの問題が そのままですね。夕景色の鏡に写っている女の目がある。 その非現実な女の目があると同時に、後ろに乗っている集 子の目があるという。現実の葉子の目と、夕景色の窓の車 窓に写った目。その目は、これから会いに行く駒子の目に も対応しているわけだけど、いまおっしゃったように、具 体的に小説的情景として見ると、あの部分が一番それを感

じる。

田久保奔放に書い

高井僕は今度、『雪国』を読み返してみて、こんないい 小説だったかなと思ったな。前はなんとなく軽視していた んですよ。「悲しいほど美しい声」なんていうのがひっか かっちゃってね。 田久保 最近、こんなにいい小説かと思ったって、それは 面白いな。 高井川端さんの中で、『雪国』は一番いいものじゃない かなと思いました。あれは、『浅草紅団』に見えたイメー ジの飛躍が、雪国というような具体的な風土と結び合って いるわけね。手法的にいえばリアリズムに接近しているで しょう。それに、作者の好奇心が外に開いている。川端さ んの

て、閉じているものが多いと思うんだけど、 『雪国』は開いている。島村が駒子の家に訪ねて行くと、 彼女は二階に間借りしているんですね。階下ではその家 の、駄菓子屋をやっているんだったかな、もともとは百姓

高井 あそこ

なんだろうけど、主人夫と五六人の子供が寝くたれてい

[graphic]

る。その寝姿に逞しい力を感じるところとかね。それか ら、山奥から置を刈ってくる女たちの情景とか、そういう 土着のものの生命力に眼が注がれて、それが生きている作 品は、他にあんまりないような気がします。 田久保島村というのは都会人で、その土地へきて、駒子 と関係が生じるんだけど、根底では観察者ですね。凝視的 な視点というか、人物というか。 高井 一種の装置みたいなものですね。 田久保そう。そのへんが、うまく働いている。と同時 に、駒子のパッションに対しては、受身なんだけれど、や はり一種、官能的な行為者でもあるわけで。駒子とそうい う官能的な情景の中にいる時に、墓のイメージが出てきた りしますね。そんな生々しい生き物というか、生物的な感 覚を、ああいうところにふっと持ち込むことで、単なる写 実的なリアリズムじゃない、女の身体と量が、両方異質な ものが一緒になって、表現として詩的な生き方をする。 高井川端さんは骨の髄から都会的な人なんですね。土着 ということが出来ず、土着しないところではじめてイメー ジが動き出す気配があるでしょう。しかも『伊豆の踊子』 にしても『雪国』にしても、みんな山で閉ざされた場所な んですね。空しか開いてない。『伊豆の踊子』でも海に出 ないんだよ、なかなか。一つの区切られた世界の中で動き 出すところに、あの人の感受性の特色があるんじゃないか しらね。

« 前へ次へ »