ページの画像
PDF
ePub

たりの時代のほうが瑞々しくて、読んでてこちらが癒され る部分があるんだな。『みずうみ』を賞める人は大変多く てね、それがわからないではないんだ。しかし一読者とし て読んだ場合に、『みずうみ』の世界というのは、どうも なんか苦しいなという思いをさせられることが多かった。 田久保 うん。それも理解できないではないけれど、川端 流の書き方ですると、あれなりに自然な流れじゃないか な。苦しいといえばいつも苦しいんでしょうけどね、表現 者は。そういう点で、かなり勝手にやっているところもあ って、ほとんど次の回への予測なしにこの回を、この情景 を書いているような気配も感じられるんですが、ただ『み ずうみ』は時期的にいっても、後の『眠れる美女』とか 『片腕』などに行く、一連の最初のころの作品と見ると、 確かに閉じた世界ではありますね。社会というものがあっ て、それに孤立して背く人間。それから秩序があって、そ れを一人で犯す人間がよく表れていて。その犯すなり背く という単独者の行為は、何を目指しているのかというと、 やはりこれ、美としか言いようがない、少女に具体化され るようなものなんですね。そのへんの中心の上に、小説的 流れがいろいろ出てくる。ですから、少女に何か魅力を感 じるというより、あの銀平という異様な男に、社会に背S ても、自分の感覚に一図な者は、こういう運命で彷徨うし かないのだなという感じをうける。まるで表現者のよう

[ocr errors]

の横光利一、川端康成、それからプロレタリア文学までも 出てきた趣がある。その自然主義の作家たちは藤村の『破 戒』や花袋の『蒲団』を最初として、私小説作家にも転身 しながら、内部で育ててきたのは、社会の外に身を置く、 つまり社会の中の功利性や合理主義などの外に、一人で生 きるということです。だから当然、自分の表現行為や生活 行為は、社会とは相反する、背き、犯すことになり、それ を保証するのは、美も含んだ自分たちの芸術性だったわけ ですね。そんな思いをして病気になったり、女と暮らした り、貧乏のどん底に転げ回って、子供や女房を田舎に帰し たりして暮らしていても、なおかつ世間で恥とされ、指さ されようと、自分たちを支えている「小説」というものが ある、という意識で生きてきたわけでしょう。それはほか の系譜の作家たちも、ひそかに引き継いで、一つ共通の時 代をつくっていると、思うんですね。だから、社会に対し て、背く、犯す単独行為というものに、自分の表現を賭け ている。そこが今の時代と違う。僕は、川端さんの禁を犯 す、それから村や町に背くという、この発想は、そういう ところに関わっていると思うんです。かなり表現者の大事 なところを踏まえている。

255

『十七歳』に現れる人間関係の設定

幻をみつめる眼

高井川端さんの作品には、だいたい人間同士が対等の資% 格で葛藤をしたり、心からの共感をおぼえたりというのは

高井だから川端さんの作品には、中絶したものが多いん だと思いますよ。彼らが生きていって動いてくれないか ら、どうしたって作者の感覚でもってすべて動かしていか なくちゃいけない。そういうつらさというのは、川端さん に常につきまとったんじゃないかな。僕が川端さんを小説 家としてあんまりしあわせだったと感じられないのは、そ ういうところから来ているんです。 田久保でも、その終息のしかたは、作品の成功、失敗は 別にして、これは作家の独特の終息のしかたでして。 高井独特と言えば言えますね。 田久保 そこに川端的世界が、読み終えた時に現出してく るんで、これはその作家の個性の発現の場じゃないかとも 思えるんですが。 高井それはその通りだと思います。 田久保やたらに物語的なドラマや関係で運んでいって、 その形の中で終わっていく小説は、僕の最近の感覚もある んだけど、そういう物語の典型みたいな小説って面白くな い。 高井 なるほどね。 田久保むしろ壊れて、その壊れ目がいったい作者の根底 とどうつながるのかを見つけ出せるほうが、小説の発見が あっていい。今の僕の好みなのかも知れませんが。 高井それはお互いに好みによって話しているわけですけ どね。

んじゃ

自身の運命を歩んでいる。あれ

いうふうな、病人ながら、溢れるような生命感覚で思うと いうところで終わる。途中で、これは川端流なんだけど、 病院のシーツの上に蟻が鉛筆の芯を運んでいるのを妹がし いっと見ているんです。その小さな蟻に自分がなってしま うような感覚に陥って、白いシーツが水原か雪原のように 見えてくるところがあります。

そのへんまで読んでくると、この妹は、死ぬとはぜんぜ ん書いてないんだけど、これは死ぬんだな、つまり、この 小説は、死なんて一行も書いてないが、死というものを背 後にして書いているんだなと感じられてくるんです。そう して見ると、四つで死んだ姉の晴着は、これを生まれてく るまだ未知の赤ん坊に着せるというのは、死からまだ未生 の生命に対して、着物を通して循環しているんですね。そ の中心に妹がいる。終りまで読んで、死ぬんだな、と感し た時に、人間の関係がある種時空の拡がりを持った、濃密 なものに見えてくる。これは、前にも読んだはずなのに、 最近読んで、改めて感服したんですけど、それは死という ものを直接書かずに、その死にいや応なく包まれていく女 の生命感を描き出すために、姉と妹の関係をきちっと書い ているんですよ。そうしたところをどう書くか、それをど う終息していくかということが小説として肝腎なんで、そ のへんが、実作者が見る作家・作品と、外から見るものと のギャップが出てくるのではないかと改めて感じたんです けどね。

小説だったかと驚きました。 田久保やはり年を取るというか、老いというものがある のかな。あれを書いたのは、川端さん、六十ちょっと過ぎ ぐらいでしょうか。 高井 いや、いや。六十前。五十代ですよ。若いんだ。 田久保 ああ、主人公が六十過ぎか。 高井 僕が、あそこで一番感じたのは、戦後という時代に 対する作者の嫌悪感です。信吾の息子に修一というのがい るでしょう。みんな菊子菊子って言うけど、僕はあんな人 格を与えられていない女を美しいとは思わない。むしろ修 一を出してこざるを得なかった作者の戦後観に注目しま す。愛人に子供が出来たら階段から引きずり下ろして流産 させようとするところありますよね。ああいう酷薄な人間 が出てくる。川端さんの戦後に対する認識というのはこう いうものと思わされました。有名な「哀愁」という文章 に、自分は日本古来の哀しみに戻っていくばかりである、 戦後の世相も風俗も信じない、現実なるものも或いは信じ ないというのがあるけど、僕はあの道は、おそらく行き止 まりだろうと思うんだな。世相に興味を失っちゃった人間 が書くものが果して小説になり得るのか。 田久保 それはやっぱり、一応そう言うのであって。 高井もちろん留保を付けて受け取らなくてはいけない で しょうけどね。だけど、『山の音』の修一のほかにもう一 人、『舞姫』に出てくる矢木という男がいますね。彼は次

« 前へ次へ »