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なごじゃけん、大阪へ出ることを嬉しがるじゃろうが、あの 歳老いたお袋が、生まれて以来、八十何年間も離れたことの ない郷里から大阪へ移って暮らせるかどうかが問題じゃ」 「城辺の家までも手離さにゃあいけませんかなかし。伊佐 男がこの世からおらんようになったんじゃ。もうあしたに でもダンスホールを再開できますけん、お袋さんとタネち ゃんらはダンスホールの稼ぎで暮らしていけますでなァ

音吉の意見はもっともであった。城辺の家を売った と て、なにほどの金になるわけでもない。熊吾の母とタネた ちが大阪へ出て、どこかに家を借り、生活の算段を考える よりも、城辺でダンスホールを再開し、タネがそれを切り廻 して、母親と二人の子を養うほうが得策には違いなかった。

けれども、熊吾は、なぜかそうしたくない思いが強かっ た。俺は松坂熊吾だ。俺はなにも商売に失敗して郷里に引 きこもったのではない。妻と幼い一人息子の体を丈夫にす るために、いったん休憩しにきたにすぎない。息子はなん とか丈夫に育ち始めたが、この辺鄙ないなかでの生活は、 妻に盗み酒の癖をつけた。都会育ちの房江には単調すぎ て、その単調さへの不満が、無意識のうちに盗み酒の酔い を楽しむ癖を覚えさせたのか しれない。 この南伊子の城 辺町での生活に適し

あるいはこの自分では

「しかし、タネにダンスホールを切り盛りする才覚はあり ゃせん。わしからの仕送りだけが生きる糧になるのは時間 の問題よ。政夫が死んで、小遣いをせびりにくる男がおら んようになっただけ、まだましじゃ。二、三年前なら、お 袋とタネらが暮らせる金ぐらいは、わしには痛いことも踏 いこともなかったが、大阪や神戸の物価の上昇は想像を絶 しちょるし、わしはまた一からの出発で、金が要る」

房江はひとことも発しなかった。隣の農家で牛が鳴い
た。風が、低い山の樹々を揺らしている。

再び一から出直すはめになることは、三年前に松坂商会
をたたみ、郷里へ帰るために列車に乗ったときから覚悟し
ていたではないかと、熊吾は胸のなかで己に言い聞かせた。
「そやけど、態おじさんは、大阪へ戻るのは八分がた決め
たことじゃと言いなはった。完全に決めっしゃたわけじゃ
ありませんでなかし」
いかにも熊吾と離れ難いといった表情で音吉はつぶやい

た。

確かに熊吾の決心は八分がた固まっていた。けれども、 残りの二分の、このまま郷里で暮らしつづけようという思 いは、風の音が強まるにつれて薄れていった。その強い風 は、風自体の音や、樹木が擦れ合う音に無数の葉ずれの音 が重なったり、あるいは、田圃のれんげや菜の花や、地面や 小川や農家に吹きつける音などがすべて重なって生まれて

向けない。

伊佐男の死も、結局は死ぬべきやつが死んだにすぎな
い。何もかもは、伊佐男が招いた。考えてみれば、俺はい
つも感傷で失敗してきたのではないだろうか。男は、ふる
さとに帰って来てはいけない。ふるさとがもたらす感傷が
与えるものは、虚無と安全に生きようとする志向だけだ。

熊吾は怒気を込めて、胸の内でそう言ってから、
「八分がたやあらせん。わしは、大阪へ戻ることを迷いな
く決めたぞ。房江、わしは大阪へ戻って、一から出直す」

ときつい口調で言った。
房江は小さくうなずき、なぜかリキに微笑みかけた。な
ぜ、房江がリキに微笑んでみせたのか、態吾にはわからな
かった。
「もうわしは、二度と一本松村を見ることはないしゃろう
けん、このどでかい土俵みたいな、わしの生まれ育った地
の、恐しいほどの星の数を見届けてくる。房江も来い。伸
仁も来い」

熊吾は、そう言うなり、伸仁を抱きあげ、房江に手を差
し延べた。

「ええ匂いがする。何の匂いやろ」

熊吾と手をつないで夜道に出たとたん、房江はそう言っ て、間のなかで顔をあちこちに向けた。

た。

「星明かりやね」

房江は仄かに光るせせらぎに目をやって言った。
「一本松の尋常小学校に、天体観測が趣味の先生がおっ
た。わしは、その先生に、ぎょうさんの星の名前と見分け
方を教えてもろうたが、もうほとんど忘れっしもた。その
先生は、まだ三十そこそこじゃったが、宿直室で首を吊っ
て死んだんじゃ。わしが尋常小学校を卒業してすぐにやっ
た。なんで自殺したと思う?」
「さあ......。なんで?」
「農家の嫁を好きになって、もうどうにもならんようにな
って死んだんじゃ」
「農家のお嫁さん? 二人は、人目を忍ぶ仲になってしま
いはったん?」

熊吾は聞のなかで首を横に振り、
「最初から最後まで、その先生の片思いしゃった。恋文を
送ったわけでもないし、自分の気持を多少とも相手に伝え
たわけでもない。ただひとり思いこがれて、首を吊った。
けんども、その農家の嫁は離感させられて実家に追い帰さ
れた。勝手に首を吊った先生の遺書に、どんなにその嫁を
好きかと書いてあっただけで、亭主も、男も姑も、嫁を追
い出しよったんじゃ。それはあんまりにも理不尽やないか
と、わしの親父が見るに見かれて言うたら、人に首を吊ら

ほど殴ってから、風呂に置き去りにしたまま、部屋に戻っ
て寝てしもうた。置き去りにされて助けを呼ぶ亭主の哀れ
な声は、一本松中に響いたそうじゃ」

房江はくすっと笑ってから、
「あのきれいな小学校の音楽の先生を、道後温泉に誘うた
って、ほんま?」

と熊吾に訊いた。
「なに!何のことじゃ」

熊吾は慌てて伸仁を地面に降ろし、
「わしが、あの女教師を道後温泉に誘うた? 誰がそんな
根も葉もない噂を振りまくんじゃ」

と言った。そして、大きく溜息をつき、
「じゃけん、わしは、いなかは嫌いなんじゃ」

と夜空を仰いだ。 「本人が言うてはる」 「本人? あの女教師がか? 誰に」 「私に」 「なに!」 「茂十さんのお通夜から戻る途中で、あの先生にばったり 道で逢うたんや。そしたら、御主人に道後温泉に誘われた けど、行ってもかめへんやろかって、にやにや勝ち誇った みたいに笑いながら、私に言うたんや」 「あの女、頭がおかしいぞ。校長に言うて、

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