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こんしょう。

「まっすぐ歩くんじゃ。足元をよう見て。走るなよ」

熊吾は、伸仁が長八じいさんの家に入るのを見届ける と、房江を抱きしめ、 「どうしゃ?ここで」

と言い、スカートの奥に手を入れた。
「いやや。若い人と温泉へ行きはったらええ」

そう言い返したくせに、房江は熊吾と一緒に田用の上に
倒れ込んだ。熊吾は、房江のスカートをめくりあげ、下着
を脱がしながら、
「今生の思い出に、れんげや菜の花の咲く田圃で、星を見
ながらっちゅうのはどうや?」

とささやいた。
「誰も近くを通れへんやろか。リキさんや音吉さんが心配
して捜しに来たら....」
「誰も来やせん」

終わって五、六分たったとき、房江は熊吾の耳たぶを指
でさわりながら、
「星が、全部、落ちて来たみたいやった」

と聞こえるか聞こえな い かの声で言い、それから、あっ
と叫んで起きあがった。房江の下着が風に吹き飛ばされて
小川に落ちたのだった。

(つづく)

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藤田嗣治は初めてパリにやってきた若 S日本人の美術家が早速自分のところ
に訪れてくると、先輩らしい好意を見せることが多かったが、一九二七年の前
半にはそうした来訪者のなかに珍らしい人物がいた。

彫刻家志望の二十二歳のアメリカ人の青年、イサム・ノグチである。父は日
本人の詩人の野口米次郎、母はアメリカ人の作家で教育者のレオニー・ギルモ
ア、ロサンゼルスに生まれ、二歳のころから十四歳のころまで日本で育ち、そ
の後はアメリカで曲折はあったが、結局彫刻家となるための道を歩んだ。

彼がニューヨークのクリニッチ・ヴィレジにある自分のアトリエを出て、ま
ずパリへの留学にやってきたことについては、二つほどの理由があった。一っ
は、グッゲンハイム財団の奨学資金をあたえられ、しばらく極東を主とする海
外旅行で彫刻の技法を磨くなどの勉強ができるようになったからである。

そして、もう一つは、前の年にニューヨークのブラマー画
廊で行われたコンスタンティン・ブランク・ のアメリカ
における最初の彫刻の個展を見て、事物の本質に迫ろうと
するような厳しい抽象、深く単純な美しさに打たれ、とこ
にこそ自分の師がいると感じて、パリのモンパルナスのア
トリエで制作しているそのルーマニア出身の彫刻家に、な
んらかの形で直接に学びたい と思ったからである。

藤田嗣治は、スクァール・モンスーリの家に挨拶にやっ
てきた内省的な青年のイサム・ノグチに会って、その父の
野口米次郎のことを思い浮かべずにはいられなかった。

東京で慶応義塾大学英文科の教授をしているはずのあの
高名な詩人は、かつて二十代のころ、アメリカとイギリス
においてヨネ・ノグチという名前で英語の詩を書き、その
地の詩壇で認められたのであった。その異数の海外進出の
話は、貿易の話などとちがって、二十歳前の嗣治にとて
も眩しかった。文学と絵画、またアメリカやイギリスとフ
ランスのちがいこそあれ、将来パリの画壇で活躍したいと
いう自分の夢の一つの先駆であるように思ったのである。
それに、詩人がアメリカの女性と結婚しているということ
がいわば洋行帰りの粋を感じさせた。

その詩人の息子が若い彫刻家になって、いまや自分の眼
の前にあらわれたのである。嗣治はふしぎな懐かしさに似
た喜びを覚えた。自分はパリの画壇のまんなかで、日本人
として初めてと言っていい大きな成功を収めている。そし

て、フランス人の女性を、ついでベルギー人の女性を妻に
している。かつてのあの詩人の冒険に深く通じるものがあ
るわけだ。ただし、身軽なことにというか、それとも寂し
いことにというか、将来たとえばこのように有望そうな彫
刻家かなにかになってくれそうな、いや、好ましい人間に
さえなってくれたらいいのだが、とにかく、可愛い息子や
娘は一人もいない。

かつてアメリカやイギリスにおいて英語で詩を書いて成
功したあの日本人の場合に比べてみて、フランスで洋画を
描きつづける嗣治が自分の方が幸福だとはっきり意識する
点は、絵画の傑作は時代や民族のちがいを楽に超えて生き
つづけるだろうというところにあった。

もし自分の絵画の作品に優れたものがいくらかでもある
なら、それらは、詩人が外国にあってそこの国語で詩を書
いた場合、結局は時代や民族のちがいにかかわってぶつか
るだろういろいろな形の障壁、そのなかには自分のも
ともとの同胞からそっぽを向かれるという残酷なこともあ
りうるさまざまな不運を、ほとんど知らないですむと嗣治
思っていたにちがいない。

嗣治はイサムの話に優しく耳を傾け、パリでの研鑽を励
ました。彫刻の具体的な話になると、それは先望の専門で
はなかったし、後輩はすでに習練を重ねて独自な探究の方
向をもっているようであったから、嗣治から言うことはほ
とんどなにもなかったが、パリにおけるイサムの実生活に

物があるシテ・ファルギエールとほとんど向かい合ってい
る。つまり、嗣治にとっては地理がしつによくわかる場所
であった。このベロニ街から、そのころのイサムの憧れの
的、五十代初めのコンスタンティン・ブランクーシのアト
リエ

てを白ずくめにすることに憑かれ、白い犬を二匹飼って、
牛乳に漬けたレタスを食べさせることまでする。時代に先
がけたブランクーシの対象の本質に焦点を合わせた抽象の
新しさは、後進のさまざまな芸術家に大きな影響をあたえ
たといわれるが、ここには微笑ましくも日常生活にまでお
よんだその顕著な一例があるということになろう。

しかし、この年から、イサムは早くもブランクーシの影
響を消化して自立することを意志する。二年にわたるパリ
滞在のあと、一度ニューヨークに落ち着いて最初の個展を
開いたりするが、やがて中国の北京、日本の東京や京都を
訪れ、おのれの芸術を飛躍させるための貴重な糧を得る。
ヨーロッパからアジアにわたる長い研鑽の旅行を終えてニ
ューヨークに戻るのは、一九三一年の秋である。

断るまでもなく、イサム・ノグチはやがて世界的な彫刻
家として大成する。藤田嗣治は第二次大戦後のパリで、イ
サムの彫刻、噴水の制作、庭園や遊園地の設計などについ
てときたま、高い評判を耳にしたり、その実物を見たりす
ることになろう。そのとき、後輩の芸術のすばらしい展開
を頼もしく思い、一九二七年における出会いを懐かしく思
い浮かべたりするだろう。

嗣治は自分が親切をした日本人の後輩の画家がめざまし
い仕事をするようになると、喜びと同時に競争心や嫉妬な
ど抱いたといわれる。しかし、イサムの場合は 刻など

ジャンルを異にする活障だし、

そのH籍はアメ

が助手をしたところではなく、同じ町のそのすぐ近くの別 のアトリエで、八十一歳の人生を閉じるのは、たまたまイ サムがパリのユネスコ本部の庭園に取り組んでいる最中の 一九五七年である。ルーマニア出身のこの彫刻の巨匠は二 十代後半であった一九〇四年にパリにやってきたが、その 後しばらくしてからずっと生涯を終えるまで、モンパルナ スのどこかの一隅を芸術のための本拠としたのである。

さて、ここで一九二七年八月に戻ろう。
藤田嗣治とユキは初めてやってきたドーヴィルで真夏の
時間を楽しんでいる。

ドーヴィルはノルマンディーの北側の海岸にある。イギ
リス海峡に注ぐトゥク川の河口を挟んでトルーヴィルと向
かい合い、どちらも夏季の保養地で、海水浴場である。そ
れで、ふだんは少い人口が夏季にはぐんと多くなる。

かつてドーヴィルは田舎の家が数軒しか建っていない寂
しい場所であったが、十九世紀後半から開発された と S
う。バリからの道路による距離は二0三キロで、これは乗
物が馬車から自動車へと変わって行くにつれて、しだいに
短いものとなり、バリから日帰りの遊びさえできるように
なった。

藤田夫妻が初めて訪れたころは、ホテルにしても、さま
ざまな娯楽やスポーツの施設にしても、じつにすばらしい
ものとなっていた。二人はこれらを経営しているフランソ

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