Nihon koten bungaku zenshū, 第 49 巻Shōgakkan, 1975 |
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... 向きは尾崎久弥翁の「郷土本概説」(『近世庶民文学論考』)を、手近に見ていただきたい。刊本となった半玄人の戯作者のものは別にして、地方の人々の稿本として残る、いわゆる膝栗毛物が甚だおびただしく紹介されている。今数えれば、その数は更に甚だ多き ...
... 向きは尾崎久弥翁の「郷土本概説」(『近世庶民文学論考』)を、手近に見ていただきたい。刊本となった半玄人の戯作者のものは別にして、地方の人々の稿本として残る、いわゆる膝栗毛物が甚だおびただしく紹介されている。今数えれば、その数は更に甚だ多き ...
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... 向きもあるが、大衆小説には、これなくては収まらぬ大事な薬味である。ただその使用方法いかんである。『膝栗毛』の教訓性は、人の気づかぬ程に巧みである。それで、どんな反道徳的な謀反気を二人が起こして、行動とでかけても、大きないたずらが成功する ...
... 向きもあるが、大衆小説には、これなくては収まらぬ大事な薬味である。ただその使用方法いかんである。『膝栗毛』の教訓性は、人の気づかぬ程に巧みである。それで、どんな反道徳的な謀反気を二人が起こして、行動とでかけても、大きないたずらが成功する ...
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... 向きもあるかもしれないが、一の追随者ならずとも、近づく者に、そうした気持もいだかしめ、そうした軽挙の心をこそぐるのが、戯作文学であると、大目のご宥恕を請うものである。この生みの親、十返舎一九としては、まことに怪我の功名と申すべきであろう ...
... 向きもあるかもしれないが、一の追随者ならずとも、近づく者に、そうした気持もいだかしめ、そうした軽挙の心をこそぐるのが、戯作文学であると、大目のご宥恕を請うものである。この生みの親、十返舎一九としては、まことに怪我の功名と申すべきであろう ...
多く使われている語句
あし あと アノ あら あり いた いつ いふ イヤ うち おいら おき おとこ おれ かい かいな かけ かご かづき きた くん こいつ こう こち こつ コリヤ コレ こん サア さかい さき さま ざります さん しゃ じゃあろ じゃわい しゅ せん ぞい ソリヤ ソレ そんな たい たち たり たる だん ちゃ つき つけ つちや つて でも てゐ といふ とき ども とり とんだ ながら なされ なせ ナニ なら なり なる なん ナント にし のか ハア ハイ ばかり ハテ はなし はやく はら ひとつ ふじや ふたり ふと ふり ふんどし ほう ほど まい まし ませ まで まん めし モシ もち もん ヤア やう やく やす やせ やつ やら ゆく より らい られ ろう わし ゐる ゑど 狂歌 次郎兵 十返舎 千本通 東海道中膝栗毛 道中 膝栗毛