和漢三才図会平凡社, 1985 |
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... とし、特に来たって問答議論した。一度師の語るを聞くと皆は稽首し、しかも洗心子は居宅を捨て方丈とした。今の雲門庵がこれである。(花園)上皇はその風を聞き、詔して大内に入らせた。奏対は旨に称い、大徳寺をもって第一の勅願寺とし、興禅大燈国師の号 ...
... とし、特に来たって問答議論した。一度師の語るを聞くと皆は稽首し、しかも洗心子は居宅を捨て方丈とした。今の雲門庵がこれである。(花園)上皇はその風を聞き、詔して大内に入らせた。奏対は旨に称い、大徳寺をもって第一の勅願寺とし、興禅大燈国師の号 ...
256 ページ
... とし、誤って の墓宇野村(五条市小島町). 大いに祟りをなした。延暦十九年(八〇〇)に従五位下葛井みささぎかつらい(かどい)やまもと王を遣わし、勅して旧の如く贈官した。その墓を山陵と称し、その霊を御霊大明神と号する。陵は御山〔吉野川の半里南(五条 ...
... とし、誤って の墓宇野村(五条市小島町). 大いに祟りをなした。延暦十九年(八〇〇)に従五位下葛井みささぎかつらい(かどい)やまもと王を遣わし、勅して旧の如く贈官した。その墓を山陵と称し、その霊を御霊大明神と号する。陵は御山〔吉野川の半里南(五条 ...
321 ページ
... とし習学し、ほとんど十年いた。百済の使 321 くだらえいきしたがえにち出家させた。白雉四年(六五三)遣唐使[吉士長丹〕に随って入唐した。そこで長安城に至り大きのおさに女ならば朕の子としよう、と言った。男が生れたので鎌足の子とし、沙門慧隠の下に ...
... とし習学し、ほとんど十年いた。百済の使 321 くだらえいきしたがえにち出家させた。白雉四年(六五三)遣唐使[吉士長丹〕に随って入唐した。そこで長安城に至り大きのおさに女ならば朕の子としよう、と言った。男が生れたので鎌足の子とし、沙門慧隠の下に ...