和漢三才図会平凡社, 1985 |
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... なった。ある日宴座(坐禅)の時、虚空蔵菩薩が衣の袖の上に現われた。そこで袖を截って画図にして法輪寺に納めた。[貞観元年(八五九)〕三会講師となった。これより先[承和年中(八三四~八四八) ]大井河が溢れ、道昌が防止を監督した。衆人が子のようにやっ ...
... なった。ある日宴座(坐禅)の時、虚空蔵菩薩が衣の袖の上に現われた。そこで袖を截って画図にして法輪寺に納めた。[貞観元年(八五九)〕三会講師となった。これより先[承和年中(八三四~八四八) ]大井河が溢れ、道昌が防止を監督した。衆人が子のようにやっ ...
102 ページ
... なっても世嗣がなかったので、弟の浄土寺の僧義尋を還俗させ、〔名を〕義視と改め、今出川殿〔と号した。細川勝元を執事とした〕。ところが翌年義政の実子が出生し、義尚〔と名づけた〕。遂に義政と義視は不和となった。この時〔応仁元年(一四六七)〕山名 ...
... なっても世嗣がなかったので、弟の浄土寺の僧義尋を還俗させ、〔名を〕義視と改め、今出川殿〔と号した。細川勝元を執事とした〕。ところが翌年義政の実子が出生し、義尚〔と名づけた〕。遂に義政と義視は不和となった。この時〔応仁元年(一四六七)〕山名 ...
190 ページ
... なった。昔義淵僧正が鷲の児を弄ぶのに会い、取り育てたのが、終に国の尊重する器量人になった、と。母はこれを聞くと、南京に往き東大寺を尋ねた。比丘が言うには、良弁公は高貴の人であり、自分は直接聞きたくない。公が出てくるのを伺い、事を簡に書い ...
... なった。昔義淵僧正が鷲の児を弄ぶのに会い、取り育てたのが、終に国の尊重する器量人になった、と。母はこれを聞くと、南京に往き東大寺を尋ねた。比丘が言うには、良弁公は高貴の人であり、自分は直接聞きたくない。公が出てくるのを伺い、事を簡に書い ...