鄉土の歴史: 四国編宝文館, 1959 |
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... 西条藩の氷見村(現在西条市)では、寛政五年(一七九三)五八七軒の家数のうち、本百姓が一六、小百姓四三%、水吞三〇%、家来四%という階層からなつていたし、文政頃の大洲藩の記録によると、本門・家子門に大別されている。宇和島・吉田藩では、本百姓・半 ...
... 西条藩の氷見村(現在西条市)では、寛政五年(一七九三)五八七軒の家数のうち、本百姓が一六、小百姓四三%、水吞三〇%、家来四%という階層からなつていたし、文政頃の大洲藩の記録によると、本門・家子門に大別されている。宇和島・吉田藩では、本百姓・半 ...
232 ページ
... 藩毎にいくつか計画的に建設された。宇和島・吉田藩では卯之町・宮ノ下・吉野生・岩松・平城の各町、松山・今治藩では三津・辻・柳原・波止・新町・丹原・拝志の各町、西条藩では上分・氷見、天領の川之江の各町があり、大洲・新谷藩では、灘町・湊町 ...
... 藩毎にいくつか計画的に建設された。宇和島・吉田藩では卯之町・宮ノ下・吉野生・岩松・平城の各町、松山・今治藩では三津・辻・柳原・波止・新町・丹原・拝志の各町、西条藩では上分・氷見、天領の川之江の各町があり、大洲・新谷藩では、灘町・湊町 ...
238 ページ
... 藩の利益になるようにしたいからと、藩当局に特別な援助を願出たほどであった。一九世紀半頃(天保頃)から、絣の需要が増大 ... 西条藩に属していた隣接の立川銅山(近世初期発見)を併せて、住友が経営し別子と総称したのは一八世紀中頃のことであった。幕府 ...
... 藩の利益になるようにしたいからと、藩当局に特別な援助を願出たほどであった。一九世紀半頃(天保頃)から、絣の需要が増大 ... 西条藩に属していた隣接の立川銅山(近世初期発見)を併せて、住友が経営し別子と総称したのは一八世紀中頃のことであった。幕府 ...